喜八郎は、斉藤タカ丸の花嫁として鬼ヶ里に迎え入れられた。
「綾ちゃん、宿題やってから帰ろうよ。」
タカ丸は例にもれず花嫁を丁重に扱う。なにかと喜八郎を気にかけ、できるだけ長い間、一緒にいようとする。できるだけ花嫁と共に。それは、自分の花嫁を自分で守る鬼という生き物からすれば、自然の考え方であった。
「そうですね。そうしましょう。」
喜八郎も、タカ丸の提案を普段からなにもおかしく思わずに受け入れている。
鬼頭と三翼以外の鬼と花嫁は、広大な鬼ヶ里の敷地内にある寮で生活をするため、そうして放課後をともにすごす鬼と花嫁は、この鬼ヶ里高校ではよく見られる光景である。
「タカ丸さんは、」
そうして机を向かい合わせにしてプリントと飲み物と少量のお菓子を広げ、30分ほど過ぎたときに、そういえばと徐に喜八郎は切り出した。
「ん?」
「タカ丸さんは、宿題全部、やるんですね。」
「そりゃあ、みんなやるもん。僕もやるよ。」
タカ丸はふんわりと笑う。優しい笑い方だと、喜八郎はいつも思う。タカ丸の口調と同じくらい柔らかい笑い方。
喜八郎は、それが嫌いじゃない。寧ろ、一緒にいて心地よいとすら感じていた。
「でも、高校生、初めてじゃないんでしょう?」
タカ丸に限らず、鬼全般に対する疑問だ。彼らは、長寿なのだという。そうして花嫁を迎え入れる際、自分の花嫁の在学に合わせて高校生活をする。花嫁を迎える予定のないものが、友人に合わせて在学したり、或いは他人から奪う花嫁を探しに在学する例も、少なからずはあるが。
そうして一生の内に何度か高校生として授業を受けている。
「花嫁がね、聡明な方が一族として嬉しいでしょ。だから、勉強できる環境づくりのために、みんなやれっていう決まりなんだよ。それに、久しぶりだから、結構楽しいもんだよ。」
ね、ともう一度タカ丸は笑う。
喜八郎は、その顔を見て、そうして視線をすっと下ろす。
「タカ丸さん」
「なあに?」
「その問題、さっきから進んでなくないですか?」
タカ丸の解いている数学は、10分ほど前に見たときから、同じ数式で止まっている。
「それに、何回受けても苦手なものはよく分かんないしねぇ」
誤魔化す様に肩をすくめてみせるタカ丸に、喜八郎は小さく吹き出した。
使う公式が違うんですよ、と一言教えて、もう一度自分の片付けていた古典の参考書に目を落とす。
恐らくまた柔らかく笑って、自分を称賛するタカ丸の声を、真直ぐ受け取るのがなんとなく恥ずかしかったからだ。
「綾ちゃんと一緒は楽しいね、」
けれどタカ丸の放った言葉は、喜八郎の想像とは違い、喜八郎は思わず顔を上げた。驚いた顔をしている喜八郎に、念を押す様に、ね、とそれだけ言う。
最初は、その声が気に入らなかった。その声が気に入らなかったのか、鬼という生き物が気に入らなかったのか、それとも鬼の花嫁として運命づけられた自分の生まれが気に入らなかったのか、その運命を喜八郎に持たせた親が気に入らなかったのか分からないけれど、ともかく、その柔らかいトーンで声をかけられるのが嫌いだった。
絶望と怒りとで燻りながら鬼ヶ里に来た自分を落ち着かせようとしたのか、喜八郎の頭を撫でようとしたタカ丸の手を思い切り振り払って、触らないで、と睨み上げたのが、最初に言葉を交わした時だったと思う。
その相手が、出会ったときと少しも変わらない柔らかな口調のまま、喜八郎と一緒にいることを楽しいと笑う。
「私もですよ。」
今では心地よいとすら感じるタカ丸の独特の雰囲気に、そうして喜八郎は今ならばそう答える。答えられる。
答えられるけれども、喜八郎は、知っている。
自分とタカ丸は、お互い少し風変わりなところがある。その人と違う歯車がいい方向に噛み合った二人は、問題なく夫婦としてこの先も暮らすことになるだろう。タカ丸は、きっと最後、喜八郎を看取る人間だろうと知っている。問題はない。喜八郎もそれでいいと思っている。
けれど、鬼ではなく人間の一般世界で、結婚に繋げる様な恋愛という意味での愛情をお互いに抱いているかといったら、そうではないと、喜八郎は知っている。喜八郎はタカ丸を愛しているわけではないし、タカ丸は喜八郎を愛しているわけではない。
鬼の結婚のシステム上、少ない話ではないのだろう。だからそれがさして問題になるとは喜八郎も思っていない。身を焦がすような想いなんてなくても、人間同士だって一緒にいて落ちつければそれで十分だと思うし、そして喜八郎はタカ丸と一緒にいることは確かに楽しい。
それを、喜八郎は知っている。ただ、なんとなく、タカ丸は知らないのだろうと喜八郎は思っていた。
こうして鬼は、この人は、自分の迎え入れた花嫁を慈しむことを教えられて覚えるのだ。
問題はない。ただ、ひょっとしたら、今自分の目の前で優しく微笑む鬼は、それとは違うその身を焦がすような愛しているという感情を、その概念を、今も昔もこれからも、知らないままに生きていくのではないかと、それだけがすこしだけ気がかりだった。