飽和とも幻滅とも違う、私を蝕む玉響な無音の話だ。












宵闇に、心酔するほど激しい接吻。
優しさなどそこにはない。そんなものは端から求めてもいないのだから。私と接吻を交わす相手は、私の愛している人物ではないし、この男も私ではない他の人間を愛している。随分と、まあ、不健全な関係だ。しかしそれも今に始まったことではない。何がいけないのか。どうしてこうなっているのか。考えることすらもう億劫だ。怠惰と不毛は類語だというのは、今更私が論じるまでもないことだろう。そこには幾許かの寂莫があるのみで、他はあまりにも無機質な感情だ。
決して、報われない恋や愛などにもがいているわけではなかった。私の本当に愛している男は、心底私のことを愛している自信だってあった。この男・・・鉢屋はどうだろうか、本当のところを私が分かるというわけでもないが、わざわざ鉢屋が姿を真似るほど固執しているあの図書委員の後輩とて、知る限りあまりにも穏やかな目で鉢屋を見ているように見受けられた。どこを探しても理由たり得る理由がない。尤も、理由が必要な世界には、この時私はとどまっていないのだ。夜のしじま。何もかもが眠りにつくように、風ばかりが微かに音を立てた。人目のつかない場所での逢瀬。綺麗な言葉でたとえればそんなところか。救いなのは、下弦の月の光によって出来る影は、昼間そこらじゅうに蔓延る日光の反対の影のよりずっと非干渉的であることだろうか。何食わぬ顔をして、音や光をずるりと呑みこむそのさま。第三者が万一見ていたら、この状況を何と言っただろうか。或いは、私と鉢屋と、それぞれの思い描く別の人物が、見たら。いや、それを考えることこそ不毛だろう。その人物が近くにいても気付かないような私ではない。彼もまた、同様だ。
漸く離れた唇に息を整えながら、夢みたいに綺麗な星空を遠くに見た。そうしたところで、視界の端には胡乱な光をした瞳を持った鉢屋が嫌に大人びた笑みを浮かべているのだが。大人なのではない。あくまでも、大人びた笑みだ。それも、表情の歪め方の話であり、瞳の胡乱さにちらちらと見え隠れする本音に近い何かでは、子供のように喚いている感情が疼いている。物欲しそうな、それでいて何もいらないと拒絶するような、そんな雰囲気で。
純粋。純愛。一途。健気さ。全てに唾を吐くつもりも毛頭ないが、それこそ美徳と称賛するほど真直ぐな感情を持ち合わせているわけでもなかった。同種かつ異色の歪みを抱えた二つの生き物の鼓動を唇越しに今夜も分け合う。
「お前は私に何を見ている?まさか、愛する男の幻影を重ねて身代りに出来る様な共通点などありはしないだろうに。」
鼻の先が触れそうなほど顔を近づけなくては、瞳の色までは分からない。その距離を敢えてとった。私の尋ねた言葉を訊いて鉢屋は目を見開く。それを言われるとは思っていなかった、とでも言いたげに。それもそうだろう。鉢屋が私に接吻をしようと、そこに不破の影など微塵も見ていないことは、訊くまでもない、分かっていた。私が鉢屋と接吻を交わす時に、鉢屋に文次郎の陰など微塵も見ようとも思っていないことと、丁度同じように。
「何をおっしゃる!微塵も思っていないくせに。・・・・いや、でも、そうですね。味方によっては立花先輩も雷蔵も同じような存在ですよ。勿論、それで貴方に彼の影などみたくもありませんが。」
「ほう?」
「存在的にものを見ろって話です。たとえどんなに稀有な才能をお持ちでしょうとも、高尚な思考を抱いていましょうとも、立花先輩という存在者を構成している成分というのは、雷蔵のそれとも私のそれとも、そんなに大きく違えるわけではないでしょう?」
だってほら、人間ですし、と鉢屋はすうとその瞳を細めた。
詭弁と嘲笑うよりはよほど極論、といったところか。その暴言にも近い極論が結果として自分に跳ね返っているのだから、この男も存外に不器用だ。もっと器用に生きているようなやつかと思っていたが、それすらそうであるように鉢屋自身が見せているのなら、まさか、それこそ怠惰と言ってもよいのではないだろうか。ひっそりと月の光がふわふわと降ってくる。どこに着地したいのかなど分からない。
返事をする代わりにくすくすとわざとらしい笑いのみを返して、恋人同士の戯れのように、鉢屋の頬をゆっくりと撫でた。拡散する思考。無償に本当の愛を叫びたくなった。けれど、それを正しい人間に伝えにいく気にもならない。自分でも驚くほどに冷静な気分で、私は今、一つ年下の得体のしれない人物と至近距離で向き合っている。
存在的に存在者を考察すれば、私と不破に大差もないという。それ以上に、不破と鉢屋自身も大差がないと言った。それは、彼が一番恐れていることではなかったか?ニヒルな笑みを張り付けて、なるほど変装と言う仮面をかぶってもそれほどの表情が出せるのなら、素が万一出てきてしまった時、それを肯定してやれる人間などそうそうおるまい。私を含めたあらゆる認識を、難なくかわす。それは私よりもずっとずっと軽くこなしているものだから、ニヒルと言うよりはシニカルだ。誰もが特別視の対象になってはくれない。その事実を突き付けられたときに、一番手も足も出なくなりそうな人間が、目の前で息づいている。そのシニカルな笑みは今に限って私に対してだけではないだろう。言わなければよかったと、言った途端に思うくらいならば、はじめから自己の中で悪戯に引いたラインぎりぎりの言葉など、言わなければよかっただろうに。
「ならば、お前はそれで死に至るとでも?」
皮肉をたっぷりのせてそう言ってやった。ゆるゆると、幸せが首に手を掛ける。私にも鉢屋にも、想うところは、そう、いろいろあると、一言に集約してしまえばそういうことだ。言葉がいつもあんまりにも便利すぎてその元に跪きたくなる。大切なものが遠ざかる感覚。知りもしないくせに悪夢にばかり何度も何度もそれは自分を苛めて、一体何を繰り返せば逃れられるのかも分からない。
「もともと望みを抱えるわけじゃありませんから、絶えもしません。」
きっぱりと言い放った鉢屋の目が、いつになく寂しげで、私は思わずきっかり三秒、目を伏せた。とても、自分を嘲笑う気分だ。誤魔化す術に長けてしまう。そうして逃げられなくなってしまった時、直面する感情に名前があるのかが気懸りだ。それでも月の光はふわふわと柔らかくも曖昧なまま降ってくる。それは、まるで、祈りか何かに似ていたし、星とてちかちかと瞬いている。絶望などと安易な言葉に逃げることだけは潔しとしなかった。その、山みたいに高い自尊心に、海みたいに落ちくぼんだ自意識。嘘ではないと、誰にでもない、言い聞かせるためだけに唇を震わせた。眼の前にいる男ではない。別の男を恋しく愛しく想う気持ちを思い出しながら、堪らなく、堪えがたく、なった。
どんなに鉢屋がその学年で大人びていようとも、並でない才能を持っていようとも、私にしてみれば一つ年下の後輩以外の何物でもなく、いや、私がその一年に眼が眩むほど多くのものを見たのかと尋ねられたら、首を容易く縦に振ることも出来ないが、それでも、救われた経験も打ちのめされた経験も、その差のなかに僅かでもある分だけで、私は穏やかな気持ちで、鉢屋三郎という男を認識することだってできた。
「貴方がそれを言うとは、正直想っていませんでした。私が雷蔵に対してそうであるように、潮江先輩を特別視しているのかと思っていたんで。」
「暗愚だったな。鉢屋三郎。私にとってあれは、もっと根底的だ。ずっとな。」
「それもそれで大概に酷いと思いますけど。」
そう、同種の歪みを、抱えていたのだ。だからこそ、鉢屋に向けた言葉が、鉢屋が私に向けた言葉が、双方を抉る。
恐らくいつものように私はこの後誰にも見られないところで僅かばかりの涙を流すだろうし、鉢屋は鉢屋で、私の前では泣きそうな素振りなどは見せず、ただ痛みに堪えたまま月から曖昧に降る光を瞳で反射してシニカルに、コケティッシュに、不格好に笑うのだろう。
それを埋めるように、優しくもなんともない口づけをした。






「一個人的存在観念」