完全無欠な存在を、憧れて、いずれ口にする。あぁ、神様。道を失くした私たちをお導きください。愛しい絶対。神様。でもだけど、誰がそれを認めてあげられるというのだろう。神様が完全無欠だなんて、そんなことを私は知らない。人々の崇める道の上、微笑み座る有難いお方。やさしい微笑み。温かな温もり。あぁ、とその一言で祈られるたびにそれをお与え給う。あぁ。私にもお導きを。どこへ、問われた先の、言葉は知らない。どこ、にいらっしゃるのですか、神様。誰それに崇められるままに、傷はすべてお隠しになられて、微笑みくださる有難いお方。私には、あなたの全ては、勿体ない。それでも欲してしまう、私はあなたの導きのままに。それでも。
誰かに傷をつけられた。その傷を、誰に晒すこともないから、まるで貴方は完璧なお方。私にはとても眩しすぎて、貴方が本当に微笑んでいらっしゃるのか否か、その表情は見えないけれど。
素敵なお方。有難いお方。かみさま。貴方のその導く光がいずれ私の目を殺めてしまうかもしれないことも知っているわ。その光がある限り、私は迷わないでいることを認められるの。貴方様がお照らしになられる。貴方が導く人は数多でも、私を導く唯一のお方。あぁ、と私も口にする。お祈りの仕方は、ずっと幼いころから知っているの。あぁ。切実につぶやく。私を導く唯一の。光があればある程に、暗がりが怖くなることも分かっていても、享受した光を私は一部分も返せやしない。それでも私を導いてくださる。活かしてくださる。神さま。貴方は私にとっても、完全無欠に見えるのに。その晒さない傷の中、ひっそりと夢見る、新しい、まだ名前もない感情。
このまま私は、貴方によって導かれるの。
あなたは、私の神さま。
「背中に傷を、負っているのですね。」
暑さにやられて、上着を脱いだ七松先輩の背中。大小ばらばらの幾つもの傷跡が、見えた。俺の声に振り返り、此方を見遣る七松先輩の瞳、その湖面には光がさし、眼球が反射してきらりと光る。それが俺に見えるということは、その反射した光が俺の目に真っ直ぐに入り込み、網膜で像を結んだということなんだろう。体は外を向いたままの七松先輩の背中は、太陽に晒されることはない。西に傾いた橙色の夕陽から、きらきらと不可視の欠片が落ちてくる。きらきら。欠片が七松先輩に降り注ぐのを、俺は黙って見ていた。部屋の中にいる俺に、その欠片は降ってこない。届かない。その事実が惜しいと思った。ただ純粋に惜しい。この空間、二人いる空間で、七松先輩だけがその欠片を受けている。綺麗な光。照らされる七松先輩の湖面は、夕陽の色に染まる。ここからは、太陽そのものは見えない。夕陽から落ちてくる不可視の欠片が七松先輩に届いて、俺はようやく息を吐ける。今、黄金に染まる空に太陽がなかったとして、俺はそれを知ることはない。ただ、七松先輩の湖面が輝く。それが全て。
万物この赤に混じり合う。そういう時間なのだから仕方がない。それでも今の俺に、七松先輩を見間違えることは出来ず。心を凋落する悲しい音が来ないことをそっと祈る。祈り方は、知っている。息を吐いて、そっと目を伏せればいい。眼裏に広がる赤い抑揚を飲み込むように息を吸えば、全てが遠くなることを知っていた。不可視の欠片は、ここまで届きやしない。
じっと、此方を見る、視線。続きを促すようで、そこでなるほどと自分が言葉を発したことを思い出す。今やっと、この人の目を見た。七松先輩の意思によってその温度を変える視線、反射する光ばかりに気を取られて、見ることさえも忘れていた。強い色をした湖面は、なかなか揺れない。その揺るぎない強かさが、今までどれほどの人を元気づけたのか、きっと貴方は知らないままだ。俺はとうに、その強かさを目印にしないと、どこへ進めばいいのかも、分からないというのに。
浮いているな、と思った。自分の視界に入る限りの景色に、この人はどこか浮いている。見知った、いや、見慣れた学園に見慣れた人物。だけど、自分が見慣れたところに座る、七松先輩。白日のもとに照らされることのない、背中の傷は、やけに浮いている。見慣れないもの。天井、床、壁、傾いた日の光が強くて、影になるそれらはやけに暗い。黒い。光のあたる範囲だけが、ぱっと色を持っている。そうしたら、きっと、景色に馴染めないままでいるのは、七松先輩じゃなくて、俺なんじゃないだろうか。きらきらと綺麗に光っていたと思った不可視の欠片が、途端に寂莫の色になる。その憂色に、名前は無い。俺にその色の感情は無い。知らない。だから無い。だけれど七松先輩がその感情をすでに知っているのなら、噛みしめているのなら、それっていうのは、なんて哀しいことなんだろう。もう一度、息を吐いて眼を伏せる。眼裏が赤の抑揚ならば、その憂色は見ずに済む。
「背中ばかりが、」
「あぁ、どうしてだろうな。私、どこよりも背中の傷が多いんだ。」
その理由を、知っていると言いたかった。誇大妄想?それでも別に構わない。腕や脚にもそれほどの傷は無いのに。その事実を受け止めて、あぁやはり貴方は、と思った。
そうして笑う七松先輩の目が、すっと細められる。湖面の形、憂色、この人は、優しい人なんだと思い知らされた。委員会では、後輩を振り回すばかりのこの人が。この学園の誰もが暴君だと納得するような横暴な人。だけどこの人は誰よりも優しいと、思い知らされる。大切に慈しむのは得意じゃないから、俺は上手に笑い返せない。背中に傷を持った人。優しい貴方は、どんな些細なことだって、こちらを向いて笑ってくれる。そのとき背後にいるのは、誰だ。その傷を見ているのは、知っているのは、護っているのは。それが、それがまさか今まさに七松先輩を正面から照らすそれなのだとしたら、そんなのってない。
滴り落ちる藍色の髪が、そっと髪に靡く。きっとあの陽光は苦いに違いない。少なくとも、俺には。今ここから見えるもの全てに定義を与えたとしたら、普遍性はきっとその苦い照らされた寂莫なんだろう。帰属させることは簡単なのに、俺には何も附属させては上げられない。与えることがどんなに難しいことか、知っている。俺は、誰かに何かを与えることはできない。神さまが、存在するだけで数多の人々に安心を与えるのとはまるで逆。今日も作兵衛に、独りで学園の外を出歩くなと心配をかけた。何だろう。このどうしようもない隔たり。感覚。奪うことばかりに少しずつ慣れていく。与えられない自分の非力を責めた声も次第に麻痺していく。終には途絶える。ふつり。その瞬間を思い知る、その、音の、なんて甘美な響き。泣きたくなるくらいに、素敵。哀しい、哀しい、貴方ばかりが、哀しい。
それでも貴方に依って生きていく、そんな人間がいることを、名前を呼んでほしいと渇望していた。貴方は決して、完全無欠なんかじゃない。だからこそ儚くて、それ故に強かであると、正直に泣きたいと思った。
笑い顔。呼吸の音で鼓動が掻き消えてしまうかとも、思った。
ゆっくりと立ち上がる。そうして七松先輩に近づく。自分さえもが夕陽に照らされる位置に行く。ただ、足についた枷のはずし方だけを忘れたままで。それでも動く。この足。俺は、どこへでも行ける。どこへ行くのも自由なのに、どこへでも行ける足があっても、どこへでも行ける道は無いから、結局は途方もない距離を、漠然とした距離感すらつかめないまま、目が眩むほどの恍惚を、噛みしめて、光、光を目指して歩くほかないのなら、どうしてそれを否定できるというのだろう。光の音、それは、目に映る憂色よりもずっとずっと切実だ。一足ずつ、鼓動と噛み合わない足音とともに、掴めない距離が縮まる。これが、祈るということなんだろうか。心にきりきりと染みる、切実な思いを。
そして、そっとその傷に触れる。
「・・・三之助?」
「痛みを、痛みを感じたんでしょう?」
「何、それほどのものではないよ。覚えてもない。」
嘘。優しい嘘は、哀しい嘘、ひどい嘘。神さまは、導きなさる、憐れなものを。そうして辿り着く天国に、神さまはいらっしゃるのでしょうか。誉も安穏も求めていないことを、本当は貴方が一番知らない。導くだけ導いておいてどうせ貴方は姿をお隠しになられる。他のだれが是としようとも、俺は違うのに。俺は貴方が完全じゃなくちゃいけないだなんて思いやしない。ひっそりと、どこへ堕ちるのも厭わない。光に目が殺められても、それに飽和してしまうことは無い。神さまがお導きになる憐れな子羊は飢えてそうして渇いている。痛みを食った、と思った。それ、余ってるなら俺にもわけてくれませんか。飢えているんです。望んでいるんです。どうしようもないほどに。
知れば知るほど分からなくなるこの人の、傷に伴ったはずの痛みが消えてしまう。痛いというのは、灼熱の感情だと、昔に聞いた、あれは、そう言ったのは、誰だったのか、忘れてしまった。忘れはしたけど、今更惜しむこともない。別段何も思わない。ただ、七松先輩の痛みすら、灼熱の感情だったというのなら、それはきっと、優しくて、哀しくて、冷たい。そう思っただけだったのだけど。痛みを、覚えていないと俺に言った七松先輩は、その灼熱の感情すらも忘れてしまったのだろうか。あぁ。繰り返しふつふつと浮かぶ祈りの言葉を、口にはしない。俺にはまるで絶対のように見える七松先輩の背中の傷。何も貴方の美徳というわけでもないでしょうに。もう冷えてしまった傷跡に、翳る感情には名前がないと知った。今は途方もない距離から降る朱い夕陽が昼間は白かったのを思い出した。貴方は完全無欠なんかじゃない。そう知っているのは、決して特別なことではないのに、今目の当たりにしてしまったことで、いくらか自分がこの人をよく知っているような錯覚に陥る。その傷に魅せられた。どこへ行くのも構わない。そっと傷跡をなぞろうとした指の、動かない理由。俺と貴方に帰属するものは殆どない。優しい方だ。ただ、少し欠落している。真白な光も赤の欠片も、まるで欠けがないかのようで慄然とする。いらないのに。きっと安心できるのは、この優しい欠落。足りないものを一つずつ補う行為をするわけじゃあ、決して、ない。ただ、それを認めてくれなくても構わないから、どうか導いてくれるだけで。その道を示してくれるだけで、色を付けてほしいわけじゃない。だから、その冷えた傷跡に、触れるものも、眠るものも、欠落することを、示して。
「痛くは無いよ。」
笑った。
どうしようもなく、切なくなる。三之助、と名前を呼ばれる。声がする。優しい、優しいということは、だから哀しい。分かってほしい。ただ、その傷ついた痛みを、忘れられた灼熱を、どこにあるかもわからないままにしてしまうくらいなら、そこへ導いてくれたら、ひとつひとつ掬い上げて惜しみなくそれを抱きしめるんだろう。日が沈む。その音を聞こうとして耳を澄ましたのだけれど、結局鼓動の音ばかりが聞こえた。傷跡に触れた指が思ったよりも熱くなった。生きること、そうするほどに傷が増えていくのは、貴方だけじゃない。俺だけじゃない。
落ちてくる不可視の欠片が、せめて七松先輩の頬を伝ったのなら、涙と肯定することもできたのに。そうするほどに、途方もない話になっていってしまうと、思ったのだけど。
「ただ、怖い。」
そう言って七松先輩が俺のほうを振り返る。その瞬間、七松先輩の背中の傷が白日のもとに照らされてしまったのかと認識したら、息が詰まった。この人は、俺を振り返ったのだ。そして、だから、その背を。
思わず伏せてしまった瞼に柔らかな温度が乗るのを確認した。あぁ、なんて優しい人。
「あぁ」
小さくつぶやいた。祈りの言葉。後生だから、だなんて、そんな。完全無欠の光なんてきっと終まで馴染めない。そんな圧迫的なものがほしいわけじゃない。あぁ、優しい人。その背の傷を、知ってしまったその事実が、後生色あせることは決してない。二つの鼓動が正しくない形で動いている。正しくなくとも、構いはしない。歩く先を見失いたくないから、どうか最期まで導いて。誰よりも上手に、その不完全さを肯定してあげられるのかは分からないけれど、きっとそれしか俺にはできない。そして俺の頭を一つ優しく撫でた掌の温もりに依って、生きる、導かれるままに。そう、思った。
たとえいくつの欠落を貴方が抱いていても、私には貴方以外の導きの手が見えない。
だって貴方は、私の、神さま。
傷跡。