泡沫よ、光を見たくば海底から水面まで、なにを厭うことはない。ただなすがままにたゆたいながらのぼってくればいい。





「・・・・・痛い、馬鹿。」
声は、二人の鼓膜に響いて、あとは、この空間を朱色に染める夕方の空にのまれて消えた。沈黙。数秒も経てば、私が言葉を発したことすら危うく分からなくなりそうだ。夕刻は、逢魔ヶ時といったか。何かに魅せられたような、リアリティーに欠けた空間。痛みばかりが、かろうじて私を現実に繋いでくれている気がする。
腕の中。私を強く抱きしめるこの男は、先ほどから一切として言葉を発していない。ただ強い力が弱まることなく続くのみ。知らないのだろうか、こいつは、手加減というものと、自分が他人と比べてどれほど力が強いのかということを。私は、息をすることに意識を向ける。生きていることの証明を、忘れてしまわぬようにと。そうでなくては、何もかもが分からなくなってしまいそうだ。
私の体温、腕の温もり、夕日の温かみ。全てが曖昧に溶け合ってしまっている。そこに附属するいくつもの感情。夕陽の温かみが一番心地よい温度で、それでもそこには感情などなく無機質で、私の感じるものからは、酷く浮いてしまっている。私が求めているものは、ただひとつ、だから。
それを余すことなく受け入れて、私は今、幸せと形容するのに値する状態のはずなのに、幸せとは果たしてこんな感情だっただろうか。深海の泡が水面まで途方もない距離を上っていく音を、耳の奥で聞いた気がした。
何故なのだろう。私の持て余す感情、そして、言葉を発しないこの男の、温もりを通して伝わってくる感情。なぜこんなにも泣きたくなるようなものなのだろう。寂しくも、悲しくもない。切ない、とも違う。何と言えばそれは正しく表されたことになるのだろう。
痛い、そう言ったさっきの私の言葉は、本当にこいつに届いていたのだろうか。緩める気配のない腕の力に、疑問に思う。が、もう一度いうことはしない。今言葉を紡いだら、涙が出そうで、この泣きたくなるような感情を、肯定してしまうような気がしたのだ。それは、たまらなく悔しい。
閉じた世界。夕暮れの時間帯はそんなに長くはないはずだ。空が朱く染まるのは、一日のうちのほんのわずかな間だけ。なのに、その少しであるはずの今がこうして長く感じられる理由を、私は、知っている。上手に、肯定できないだけで。
痛い。痛いんだ、胸が。痛くて甘い。だから、泣きたくなるのだろうか。自身では昇華しきれないから、感情がこぼれていってしまいそうなのだろうか。現実味のない、空間、感情、自分。
今更閉じることもしない瞼。目に飛び込んでくる光が網膜で像を結ぶ。全てが、一線の外にある様に遠い。音は、柔らかな風の音。学園であるにも関わらず、人がつくる音はない。この世界には、まるではじめから2人しかいないようで、それは受け入れがたいこと、迷子になってしまったかのような感覚。こいつの後輩じゃあ、あるまいし。
二人揃って、途方に暮れていて、ふたつの鼓動が、互いに求めあうことを知っている。だからこそ、必然的に互いが互いを受け入れることができる。微妙に異なる周期で嗚咽を上げるように鳴る鼓動、を。
必然。そうだ。
必然、だったのかもしれない。
この私を抱きしめる腕の強さも、こうでなくてはならなかったのかもしれない。理由などなしに。そうでなくては、何かがダメになってしまうことは、必然だったのだろうか。だとするのならば、この行為は呼吸をする、その生命活動と何も変わりはないと同時に随分と傲慢だ。それでも、構いやしない。それでもいい。それでいい。それでなくては。並べた肯定は、今更になってどれもがしっくりくるような感じに眩暈がしそうだ。
胸の中のなにかが、すとんと、落ちていくような。それでも、水面まで上がった泡が再び深海に帰ることなどない。私は、その代わりにと、石でも投げ入れているようなものなのだ。それすら、深い深い底に、辿り着くかは分からない。
無機質な温度が、ゆっくりとどこかへ去っていくのを感じる。それに伴う現実が、また私を支配しようとする、数秒先の出来事に、私は未だに戸惑って、結局は、何かを失くしてしまったようだ。
私が投げ入れたものは、その、失くしてしまった何かかも知れない。
それでも、失くしてしまっていいものだと思った。そんなものよりも、ここにある、確実性もない玉響な現実で、きっと私は飽和しているのだ。涙は、もう流れているのか、それともまだ私はそれを堪えることが出来ているのか。
全て、必然的な現実だったんだろう。
視界の端で、夕日が沈む。夕暮れ時が、ここで終わる。








泡沫よ、なにも構うことはない、泡沫を失くした海底には私が無謀を捨て入れるのだから。