鉢雷



早く。
息とも声ともつかぬ空気の振動で、三郎は何度もその言葉を繰り返した。
はやく、はやく。
もはや頭に浮かぶ言葉はそれだけで、うるさいほどの鼓動を抑える術すら分からなくなっていた。否、抑えようという意識など、三郎にはなかったのである。
海に青。月に黒。視覚的な世界はまさにしじまと呼ぶに相応しく、木々の葉さえ触れもしなかった。全てはあくまで背景に変わり、神代を見たという大樹すら、路傍の石ころと大差なかった。断続的に得る視覚情報は、此岸の花ほどの寂寥たるものであったが、実際に三郎自身が感じ、認識するの世界は、煌々として赤く、押しつぶされそうなほどの全ての存在者の怒涛のような自己主張の群れだった。
はやく、はやく、は  やく   、  ―――――らいぞう。
波のような、もやのような、腕をからめるものから三郎は逃げている。そのつま先で、地面を強く蹴って。止まればおそらく二度とは走れないであろうことにも、気付いていた。三郎は走った。
いっそ止まってしまった方が楽だろうか。僅かに涌いたその想いも本能の様に脳が終わりを告げる。早く早くという思いに、ぱちんと泡が爆ぜるように消えてしまった。息苦しくて、辛くて、それでも不思議と悲しくはなかった。




「らいぞう、」
そうして終には走り抜き、雷蔵の名を呼んだ三郎を、雷蔵は穏やかな瞳で受け入れた。どれだけ走ったのだろうか、どれほどその足で地面をけったのだろうか。三郎のつま先から、血の匂いが漂うのを嗅いで、雷蔵は一瞬顔を顰めた。しかしまた穏やかに笑い返すと、「よかった。三郎、ちゃんと戻ってきてくれた」と言った。
雷蔵はしばらく、そのつま先を見ていた。傷ついても、血をけり、何もかもを振りほどいて三郎を生かしたその二寸に、何かを思い出して無性に堪え難くなったのだった。