母の声を、覚えている。
「幸せになりなさい」
父も母も、偉大な方だった。
世間で言うエリート。下す判断は常に英断であった。
幼いころから、両親の判断に従えば間違いないと、教えられてきていた。故に、従ってきた。そのために自分の意志を知らぬふりをすることも、別に、厭うことではなかった。
けれど、いつもどこかで感じていた。どう埋めていけばよいのかも分からない距離感を。
両親は偉大であった。
それが誇らしかった。誇らしいでしょう?といろんな大人に尋ねられた。決まって、えぇ、とても、と微笑をもって答えた。
父と母の望む子であることが、おそらく、私にとってなによりも大切なことだった。
二年前のことである。



     *

「幸せになりなさい、仙、」
仙蔵の十六の誕生日の朝だ。
母の手がそっと仙蔵の頭に添えられた。
仙蔵は、訳が分からずにただ、茫然として母の顔を見る。微笑んでいる。
食卓では、いつも出勤時間が自分より早いため、先に朝食に手をつける父が、箸も持たずに腰かけていた。
「かあさま?とうさま?」
何かがおかしい、と感じていた。
「仙、貴女に、昔、婚約者がいると言ったのを覚えている?」
冬の朝の冷気とは違うところで、温度が下がる。
(――――――貴女にも、いずれお迎えが来るのよ、)
記憶を探る。
覚えている。あれは、そうだ、仙蔵がまだ本当に幼いころ。まだ絵本を読んではお姫様と王子様に憧れていた子供時分の話だ。
一度きり。そのあと、その話を母がしたことはなく、仙蔵は当然、お姫様に憧れる様な自分に、母が子供をあやすために、言い聞かせたものだと思っていた。
「今日ね、そのお迎えが、」
来るの。
母の微笑み、は優しいだけのものではなくて、どこか温度が低い。
ところで、どうしてあの幼いころ一度だけ聞かされた話を、そのときの光景を、こんなにも鮮明に覚えているのだろうかと思案した。
(あ、)(そういえば、かあさまのほほえみ、が)(まるでいつもとちがう、そう、まるで今日のような)
「そんなの、嘘ではなかったの・・・?」
「仙、これは、喜ばしいことなんだ。」
普段感情をあまり顔に出さない父の顔が、誇らしげだった。
なるほど、ずっと前から両親は受け入れていたのだ。それでも仙蔵にその話をしなかった。その理由が、思いつかない。が、両親の話はいつだって結論ばかりで、仙蔵はその理由を知らないことばかりであった。
これも、両親の英断だというのだろうか。
父も母も誇らしげで、自分の声が届くのかさえも、測りかねた。
「どうして、」
訊きたい理由がたくさんある。
漸くその言葉を仙蔵が紡ぎだしたとき、家のインターホンが鳴った。
「おや、」
そこで仙蔵の発言はなかったことになり、さぁ、仙、と急かされるままに玄関へ向かう両親のせに従った。


玄関に立っていた男をみたとき、思わず、ぞ、とした。
目つきの悪い黒髪の男。しかし、随分と整った顔をしている。
気圧された。その割に、男の表情からは負の感情は見当たらず、代わりに僅かに緊張が見えた。それならば、その男は、感情を抜きにしてそれほどの存在感があるのか。
男は、深々と頭を垂れた。それから、顔を上げ、食満留三郎、と名乗った。
「立花仙蔵さん、迎えにあがりました。」
「使いの方ね?」
「えぇ。」
母が仙蔵を促すような目で見た。
「お行きなさい、仙蔵。」
「母様、話が、見えない。」
「貴女は、このお迎えの人に、婚約者の元まで連れて行ってもらうのよ。安心なさい。光栄なことなの、これは。」
「そうだ、私と母さんで長らく前に決めたことだ。」
両親の決断に従えば、大方間違えることは無いと、自然と両親の態度から教えられてきた。
ずっと、それが重荷だった。けれどそれでも構わないと思えるほどに、必死で繕ってきたのに、こんなのってない。
「仙、」
ただ、両親の望む子でありたかった。
「いや、だ。そんな顔も見たこともない相手に!」
「・・・それでも、貴女をずっと待ってるよ、」
声を荒げた仙蔵に、留三郎と名乗った男の低い声が答えた。宥められるようで、それがまた嫌だ。
知らない、と数回繰り返す。さぁ、と両親の声が聞こえて、実はそれがずっと嫌だったのだと、言うことも出来ないままで。

「おいでよ、多分、楽しいよ、」

空気をぶち壊して、明るい声が降ってきた。
留三郎の後ろから、もう一人、見知らぬ男が来て、どうも、と仙蔵と両親を見て軽く会釈をする。
「小平太、お前・・・・」
留三郎があきれた、といった風な声を出した。留三郎と同じ、抗えないような存在感を持った男。
「だって、鬼ヶ里に来た方が、幸せになれるシステムは整っているんだし。」
能天気な声を出す。この場で一人だけが笑っている。
仙蔵は、両親の顔を交互に見、それから玄関に立つ二人の男を見る。
留三郎がその視線に気づいて、短く息を吐いた。
「なぁ、でも、分かっているんだろう。」
その言葉に、仙蔵ははっとした。言い当てられた。
もしも、きっとこのまま彼らが帰ったところで、仙蔵はすでに諦めてはいた。
婚約、だなんてそんな大事なことすら、結論だけで淡々と告げてのけた両親に対して。
ずっとずっと、遠かった。
「・・・・分かりました。」

その私の言葉を聞いた時の両親の顔と言うのは、覚えていない。