君が好きだよ、の続き





懐かしい声が聞こえた瞬間、この体のありとあらゆる部位が正常に機能しなくなってしまったようだった。脳は思考を停止し、心臓は速くなるばかり。体は動かないし、声も出なくなった。これは本当に現実かだなんて考えようとしたところで脳は正常に思考をすることを放棄してしまっているのだ。
「さぶろう、」
「・・・・・雷、蔵?」
もう一度、その人が私の名を呼んだところで、初めて息が声帯を震わせて、辛うじて絞り出した、一番愛おしい名前。呼んだら、変らない優しい微笑みで、うん、とひとつ頷いてくれて、これは、本当に現実なんだろうか。私の記憶にあるより、少し大人になった顔。だけどその表情は何一つ変わらなくって、懐かしいような、何とも言えない感情が込み上げてきて、確かめるように再度名前を呟いた。
「どうして、」
その続きを、何と問えばよいのやら。何分聞かなくてはならないことが多すぎた。どうして、ここにいるの?私が分かったの?私の名を呼んでくれたの?私に会おうと思ったの?
「三郎、僕ね、本当に憂えるべきは何か、分かったから。」
そう言って雷蔵はまた笑う。その表情。私には、その表情、今はできないだろう。その前に向かおうとする意欲にあふれているような、すっきりした表情。あの日、情けなく二人で歪めたあの表情とはまるで正反対な。
私は、今適当にしていた変装をやめて、今の雷蔵の顔にした。あの時からの少しずつのいくらかの変化。そうなる過程を私は知らない。何を想っているのか、何を想ってきたのか、どんな日々を過ごしていたのか。私の知り得ないことがどうして今こんなにも惜しく感じてしまうんだろう。あの日、決断したのは私自身なのに。
憂える必要なんてないんだよ。あの日、そういった私の言葉をさして、雷蔵がそう言ったのなら、その先にある言葉は決して私の言った通りなんかじゃない。本当に憂えるべきは何か。
「「本当はあの日にも分かっていたのに」」
それは、あの日私たちが選びたかったのに選べなくて、選ぶべきだと思ったものを選んでしまった、その捨ててしまった選択肢だった。分かっていたんだよ。あの日何も言わずに頷いたその裏に示された全てを。
「だから、三郎に会いに来たんだよ。」
三郎と生きていたかったから、三郎が好きだから。三郎がどこにいたかなんて分からなかったけれど、今、こうして会えたんだから結果オーライだよね。顔だって、幾ら変えても僕は三郎が分かるよ。だって、僕だもの。
ぽつりぽつりと雷蔵が言う。何を、何を憂える必要があったんだろうか。杞憂に怯えていたのは、紛れもない。交わらない未来の方がよっぽど残酷なんだと、どうして気づいていなかったのだろう。
私たちは、もう充分に強くなれただろうか。あの日選べなかった選択肢を選ぶことができるくらいには。自分の望むものが何か、口にすることができるほどには。あまりにも雷蔵が優しく笑うものだから、私はどうしようもなく愛しくて切ない気持がどうにも体全てを支配してしまうようだった。優しい。愛しい。ここで見つけられる感情。ここにあるもの。見つけるべきは、道だったのかもしれない。今さら、どうなるかも分からない未来に怯える必要もなかったのかもしれない。強く在りたい、そう私にいった雷蔵は、今とても強く強かな人として私の前にいて私に笑ってくれている。私も、強くなれただろうか。その手をとろう。そして、お互いの手で支えてあげられたら、それはなんて素敵なことなんだろう。お互いの手で、お互いの大切なお互いのことを。そうやって、生きたいのです。生きたい。雷蔵と一緒に生きていけたのなら、それ以上望むことはないのに。だったら、何を躊躇ったんだろう。弱虫だった、あの日の私たち。怯える必要もないことに怯えて。その震えも、二人で寄り添えば止まっていたかもしれないのに。一緒にいられないことが一番怖い。その他に「憂える必要なんてない」のに。
「ごめんね、雷蔵。あのときより、私は強くなれたから、だから、一緒に生きてみよう?」
「どうして、三郎が泣いてるのかなぁ。」
そう言われて、初めて私は自分の頬を涙が伝っているのに気づいた。けれど、それを言うのなら雷蔵だって泣いているじゃないか。二人して泣いて、でもその表情には、あの日のような情けなさはなくて、感情にはあの日のような悲しさも虚しさもなくって、ここに今あるのは満ち溢れた幸せ。見つけるべきはこれだったのに。
三郎が三郎でよかったと雷蔵が言ったものだから、私は雷蔵が雷蔵でなくてはだめだったんだろうと思った。









憂える必要なんてなかった、