いずれ自分を裏切ると分かっている人物がいたとして、それを何の処置もせず知らぬふりをして手元に置いているのならば。――――愚将だ、とティバーンは長く息を吐いた。
「王、これは、」
どういうことですか、とヤナフが紙の束を机上に叩きつけた。睨んでいる。こちらを。この大陸で右に出るものはいないほどの瞳が自分をとらえている。
こちらの僅かな瞳の揺れでさえ、機微を見てとる材料だろうに、それに従わない。
これ、とヤナフが示した紙をティバーンは見遣る。次の戦の作戦書だ。そこにヤナフの名はない。戦に出るなと言った。ヤナフにはそれが気に入らない。どういうことですか、とヤナフが繰り返した。
どうもこうもない。
「書いてある通りだが?」
「狭路を打って出るんだろう?狭路を。視界が開けてるわけじゃない。諜報なら、それこそウルキの方がむいてるだろ。おれが前線に行った方が、有利だ。違うか?」
「馬鹿言うな。ヤナフ、お前、前回痛めた翼も癒えきってないくせに。」
広がり方が左右不対称な、ヤナフの甘い栗色の翼をティバーンは見た。ヤナフの目つきが変わる。ヒュッ、と息をのむ音が聞こえた。激昂する気配がした。
「馬鹿はどっちだよ!別に意地張ってるわけじゃない。足手纏いになるっていうなら、従ってる。けど別に、支障はない。」
獣でもないのに、吠えた。一言目吠えて、その後はみるみる低く静かな、冷たい声色に変わる。
ヤナフの翼に支障がないことくらい、ティバーンは知っていた。それでも戦には出さんと言った。戦に出て、人よりも傷ついて、次の戦にはちゃっかり傷を治して、また戦をする。そうしてまた傷を負う。やめてくれ、とウルキが言った。ティバーンが勘づいていることを、自分はまだ知りたくないと。それでいい、とティバーンは思った。
「決定事項だ。お前、おれに従えないか?」
ティバーンはヤナフの瞳の中に炎を見た。見間違いかと思うほど、小さい小さいものだったが。
―――戦火か?自問。
―――いや、違う。自答。
ヤナフが自分を睨んでいる。彼が本当に荒れていた頃は、それで人を殺せるのではないかと思った。しかし。
ティバーンは対して、なるべく感情を削ぎ落とした目でヤナフを見る。しかし、ヤナフにティバーンは殺せない。
此方の感情など分かっているだろうに、真っ向から反抗してくる。王に対して、敬語も使わないで。ウルキならば、もっとうまくやる。これは、自分に抵抗することに慣れすぎている。
こんなことを繰り返して、ヤナフはいずれ、自分を裏切る。
そう、ティバーンは知っている。ウルキはそれを知りたくないと言った。それが、遠くない未来の様な気がして仕方がなかった。ヤナフが裏切るということは、ヤナフを失うということで、ティバーンにはそれが嫌だった。おもしろくない、と鼻を鳴らす。
留まらせて見せてやりたかった。
狂おしいのだ。ヤナフの忠誠は、気の狂いそうなほどだった。(そう、気の)(気、?)(それは果してどちらの、)。
だから、だからヤナフは自分がフェニキス、ないしティバーンの為になると、利になると判断したのならば、ティバーンやウルキの想いを裏切って、無碍にして、嘲笑ってでも、自分の決めたものにしたがうのだろう。

それを、ティバーンが感じている以上に、ヤナフは分かっていた。
それは、そうしていこうという決意ではなく、いざというとき、じぶんはきっとそうしてしまうだろうという必然を知ったということだった。
悩んだだろう。苦しんだだろう。推し量れるものではない。推し量るものではない。それでも、二人いる自分の片方を殺せと自分に唆されて、苦しくないはずがない。誰にも聞こえないように、声を風に攫わせておいて、一人で、えずくように、泣いて。
その一人の男が、嚇然として今自分を睨んでいた。それでもティバーンは戸惑わなかった。


目を伏せられる方が、よほど嫌いだった。
「嫌いだ、キルヴァスのあの、」
裏切り者。
そう言って鴉王を誰より堂々と嫌った。その口が言うのかと思った。
諦めるのは、誰の所為だろうか。
西日が沈む。花が萎んで、それを待つ。雨が降るな、となんとなく思った。予期すべきか。風がふく。
「ヤナフ、」
名前を読んでから、かける言葉がないことに気付く。
それが窘めるように聞こえたのだろう。ヤナフは肩を竦めた。
「王、」
声ばかりが真剣なくせして、ティバーンの方を見向きもしない。
「おれ、あんたの役に立ってみせますよ。」
ゆっくりと瞬きをして、終にはそして目を伏せた。
その伏せられた目が、嫌いだった。



机越しのヤナフの腕を掴んでそのまま引き寄せた。くちづけ。
ティバーンはそうしてヤナフの想いを確かめる。
「な、ティバーン、……王、」
先程までの剣幕も息をひそめ、照れたのか驚いたのか顔を赤くしたヤナフに、ティバーンは心底自分が大切にされていることを知る。そうでもしないと自分か相手か、どちらかが駄目になってしまいそうだった。
忠誠を誓って、身を捧げて、けれどもヤナフを本当に律することが出来る部分はヤナフ自身が持ったままだ。
自分を大切にしてほしかったと言いたいわけではなく、ただ、ヤナフを失うことが、ティバーンにとって嬉しいことではなくって、そして、幼馴染である彼を心底心配しているのに、その想いをいつかヤナフが裏切るという事実が、堪らなく惜しかった。留まらせて見せてやりたかった。ただ、そのための言葉が見当たらない。
愛している、は寧ろ助長させるようで言えなかった。
「俺は、お前より先にこの手を放したりしねーぞ、ヤナフ。」
ヤナフは、本当にいやなものでも見るように、眉を顰めた。



貴方は何を見るの、