白波を掻きわけて、ざばざばと音が鳴る。
小平太はそうして、脛ほどの深さの海を歩いていた。何を目指すというわけでもない。南に進み、北に戻り、西に向かっては、東に帰ったりしている。波が白く立つ海は、しかし深い青色を湛えていた。
言葉もなくその人が歩くのを、三之助は波打ち際でただ見ていた。
素足の足首を時折濡らしに来る水は、まだ冷たい。寒くないのだろうか。不思議に思うが、視線の先のその人は、何物にも構わないというようにざばざばと歩いている。
「せんぱい」
潮の香りがする。
「せんぱい、いつまでそうしてるんですか。」
三之助は、人里に生まれた子供だったから、畑の土の香りを好んだ。雨に濡れる土の匂い。土地が肥えていくのを嗅いで、三之助は育った。
小平太は、山間の村に生まれた子供だったと聞いた。ならば、若葉の青い香りを愛しただろう。
それなのに今、二人揃って潮の香りをめいいっぱい嗅いでいるのは、なんだかとても滑稽な気さえした。
つん、と心に染みるように、風が冷たい。
背中に呼ぶ。声は、届いているのか分からない。風に攫われる。
小平太も、何か言っているような気がしたが、果たしてそれも聞こえない。ざばざばと、波の掻きわける音がする。
「七松先輩、」
海が広がっている。ますます広がろうとするのを、空が鬩ぐ。
水平線は緩やかに真直ぐではなく、境界線の空は堪らなく白い。
(寒い、なァ)
それを背景に、まだ、小平太を目で追っていた。はやく上がってきてくれればいいのに。
さらさらと、波の寄ってきて足首を濡らす。三之助はそこで立ち止まったまま、広い景色とたった一人を見ている。
何度目かの呼びかけに、小平太がこちらに気付いたのか、緩慢な動作で振り返り、遠い声で、三之助、と名前を呼んだ。
待っている。
「おいで!」
左手を差し伸べるように真直ぐと伸ばして、その声が笑う。
大分、日が高く昇った。
水面が光を反射して綺麗だった。
ほんとうに、きれいだった。
「おいで、じゃないですよ、もう。寒くないですか。帰りませんか。」
海辺で生まれた人は、この、潮の香りと潮騒とで、よく眠れるのだそうだ。落ち着くのだと。
不思議そうな顔をして、首をかしげて、寒いのか、と訊く。
「そりゃあ……って、寒くないんですか。」
うん、とあっさりと肯定されると、三之助はそれ以上何も言えない。裸足に、砂の感覚。きゅ、と掴んだ。
三之助は動かない。小平太も、その場を動かない。潮風が、香りと波音を運んで二人の距離を撫でていく。
「何処まで行くつもりだったんですか。」
「さあ、」
瞳にたくさんの光を飼いながら、擽ったそうに笑って、そのまままた小平太はざばざばと歩き始める。
まだ帰らないらしい、と肩をすくめた。飽きないのか。そのまま、どこへ行くでもないのに。
それとも、行く気、なのだろうか。
(波の流れなんてなくっても、)
どこへだっていけるだろうに。
そう思いながら、三之助はただその場で待っていた。寒いといったのに、と口の中で時間を持て余したように転がす。
はやく、流されるならば流されてしまえばいいのに。
もしも、波の中を歩く人が流されても、この距離ならば、陸に打ち上げられるだけだと確信している。
足元に落ちていた木切れを、思い切り海に向かって投げて、はやく沈めと小さく祈った。



海岸を泳ぐ