大阪の陣からしばらく後。









なにか、この世のものあらざらんものかと、思った。
自分しかいないはずの部屋にいきなりそれは現れた。
ほんの少し青みがかった長い銀色の髪を高い位置で結わえてある。それが、さらさらと月明かりに透かされる。
じ、と瞳が自分を捕らえた。
黄金を、白い球に埋め込んだような、黄金色の瞳で。
まるで、この世のものではないようだったので、紅虎は、天の遣いかなにかが、自分を迎えに来たのではないかと疑った。
「お前、相変わらず、すげー間抜け面。」
すうとその金の眼が細められた。
美しい色。美しいが、儚くはない。
意志の強さが窺えた。
全てを見透かしかねない視線に、気圧された。
「あんさん、」
一人だけ、心あたりがあった。
銀色の髪に黄金色の眼。
「サスケか」
彼は子供だった。
紅虎は覚えている。無知な子供の眼をしなかった、一武将の忍。
生意気な子供だった。
子供のうちから見なくていいものを見て、逆にするべき経験がごっそりと欠けていた。
「ああ」
天下は徳川のものだった。
それで安定した。豊臣も、もういない。
豊臣を攻めた大阪で、真田幸村も命を落とした。
「サスケ」
あの子供は、子供のうちにするべき経験がごっそりと欠けていたけれど、真田幸村、その人物が、それを少しずつ補完していた。
「あんさん、わいを憎むか。」
徳川は仇だ。
正直に言えば、真田幸村死した今、猿飛サスケが生きているとは、思わなかった。
幸村のために幸村より先に死んでいたか、さもなくば、後を追って死んでいるか。どちらかだと思っていた。
「徳川が憎い。」
まだ、戦の臭いがした。
随分と行動範囲が狭くなった、と思う。
槍よりも筆を持っている。
そういえば、ゆやの営む茶屋に最後に顔を出せたのは、いつだ。
まだ、こんな戦の臭いをさせている者が、いるとは思わなかった。
この城の外には、そんな連中が多くいるのか、と紅虎は奥歯を噛んだ。
泰平を望んだ。
戦は、もう、いい。
少なくとも紅虎はそう思っていたのだが、そういえば、と今は亡き人を思い出す。
あの、命のやりとりを至上の快楽としていた、胡乱な目で笑う九度山の侍。
彼の一部のような人物が今、目の前にいる。
壬生の、壬生の一族の奴らは今どうしているのだろうか。
時代の闇に潜んでいた者たち。そういえば、随分と死合いを好む人種であったような。
「でも、あんたを討ちに来たんじゃない。」
黄金色の眼。
これが赤くなるのを見たことがある。
殺されない。
サスケがそう言った。
安心して、安心して、絶望した。
どこかでサスケが現れたとき、安堵していたのに。
これだよ、サスケはそうぶっきらぼうに言い放って、懐から文を出して紅虎に寄越した。
「これは?」
「ゆやねーちゃんから。将軍なんて正面から行ってもなかなか会えたもんじゃないだろう。」
睨まれたようだ。
忍べたから忍んだ、とこの忍は言うが、どうせ徳川の人間など自分以外にはとても顔など見たくないのだろう。
最後にサスケに会ったとき、これの髪はまだ短かった。
ゆやの営む茶屋で見た。あの智将もいた。
それがいつから伸ばしたのだろう。
とても忍とは思えないほど鮮やかな銀。
これではどこにいたって浮いてしまうだろうに。
彼が浮かずにいられる場所、彼をそのままで受け入れる唯一の場所をサスケはすでになくしていた。
徳川が奪った。
「ゆやはんが………さよか。」
おおきに、と礼を述べて、はじめて笑いかけた。
サスケが真っ直ぐに紅虎を見ないので、紅虎は視線を向ける場所をいちいち気にする。
「なぁ、トラ。俺さ、今、江戸に住んでんだ。」
生活。ああそうかと口の中で転がした。
あまりに戦の臭いしかしなかったので、どうしてもそこに思考がたどり着かなかったのだ。
一人なのか、はたまた誰かが一緒なのか、それを訊くことは紅虎にはできずにいた。
もはや、あの歴史の裏にいる一族との闘いを終え、征夷大将軍になった自分は、紅虎である以上に、徳川秀忠であった。
自分の区別の仕方もよく分からなくなった。
せめて、かつての戦友の前ではただの紅虎でいたかったのだが、どうにも今自分は徳川秀忠として、真田の仇として、憎まれた方がよいと、紅虎にはそんな気がしてならなかった。
それが、征夷大将軍としての自覚とは違うことは、分かっていた。
窓の外に夜桜が見える。
いずれ散り、葉が青々と茂る夏がくる。
その頃に。
「ええところやろ」
「ああ、そうだな。」
そうして紅虎に笑い返したサスケの笑い方がたどたどしいのを見て、紅虎は悲しくなった。
笑むことさえ難いのは、徳川への恨みからか。
それならいい。それならば、いい。
だが、もし笑い方を忘れてしまっているのなら、どうしよう。
忘れ物。あの智将はなんてものだけを残したのだ。
けれど、その智将を奪ったのは、徳川だ。父親がいかに偉大な人物であったかは、自分でもよく知っていたし、周りからの評価もよく聞いていた。
だから、あの父親が天下を穫ったことも、そうしてできたこの泰平の世も、間違いだとは思えない。
けれども、その残り香が、まだここに戦の臭いをさせて立っている。
憎まれたならば、楽だ。
強情な彼には有り得ないかもしれないが、泣いてくれていたのなら、それも、楽だ。
「いいところだよ。いい世の中だよ。泰平だ。」
「………サスケ」
「トラが再三幸村を徳川へ誘ってたのも、知ってる。幸村が頑としてそれに靡かなかったのも。戦の世に生きたんだ。仕方がない。何も、お前が負い目を感じること、ねェだろ………!」
いつになく早口でそう言い、顰められた眉の、その下の黄金色を見ていた。
「じゃなきゃ、俺は、お前を憎むよ。」
憎みたくないと言った。
自分たちの繋がりなど歴史上なかったことだ。時代の裏に潜む歴史がある。それに触れた。あの戦い。
僅か一年ほどだった。
それでもこの子どもは、いや、正確にはもう大人なのだが、紅虎から見ればまだ彼は齢十二の少年、サスケは、紅虎を憎みたくないと言う。
それは、自分が彼に憎まれたら正当だと認識することと同じだ。
憎むことで、悲しみが多少でも紛らわせるのならば、と。
そうして今の紅虎には憎むその対象となることくらいにしか、サスケの悲しみを紛らわせるような術は持っていない。
あやすように、紅虎はサスケの頭に手を伸ばした。
「あんさんとはもう、会えへんかもなァ、」
人の上に立つものとして、自分に尽くされる忠義は何度も紅虎を救ってきたことを、実感してる。
憶測ならば、できる。あの智将は幸せ者だ。なんて、幸せな人。
ここで、過去にけりをつけるのは、一体どちらか。そして、それは、どの過去に?
「……………あぁ、」
またゆやの茶屋に顔を出そう。
頻繁には難しくとも、時々そうしていこう。
けれど、この子どもに鉢合うことはないだろう。人の気配に聡い忍だ。
「じゃあな。」
「………ちょお待ち、クソジャリ」
「っ何だよバカトラ!」
「あんさん、不幸か?」
月夜に透ける銀の髪が、嘘みたいに綺麗だった。
その黄金色の宝石の眼が、嘘みたいに綺麗だった。
紅虎にはとてもとても、それが、いまだ戦の臭いをさせてあの時代に生きているもののようには思えなかったのだ。
「まさか。」
それだけ言って、彼は消えた。



そしてあの人の歩いた道をなぞり、