穴を掘っていた。
この昼下がりに、世界が白む。けれど、関係なかった。喜八郎は、穴に潜ってそうして穴を掘っていた。
しばらく、そうしている。
手に馴染んだ鋤を動かすと、知っている音がする。土の匂いとその音で、煩わしいことをいくらか忘れられる。
遠く聞こえていた一年生の騒ぐ声も、今は聞こえなくなった。遊ぶ場所を変えたのだろう。
疲れた、と思って、喜八郎は手を止める。
座り込んで土に背中を預けると、ひんやりと冷たい。着物が汚れる。怒られるだろうか、と喜八郎は息を吐く。
何とはなしに、手を伸ばして土を掴めば、背中に感じるのよりも鮮明に湿った温度が伝わった。
そういえば、と思えばやはり、鋤も冷たい。さっきまで、何にも思わなかったというのに。疲れたと、手を止めた瞬間に、じくじくと冷えていく錯覚のした。
どうしよう。
深く深く掘ることを考えて、帰ることを考えてなかった。
昇れないことはない。ないだろうけれど、喜八郎は疲れていて、とてもそれすら億劫だった。
このまま眠ってしまおうか、とも思った。夜を越しても、真冬ではないし、死なない。明日には疲れもひいているかもしれない。思う、しかし、根拠もない。明日になっても昇る気がしなくって、そのまま、かつえていくのは嫌だと思った。醜い、と。
ならば、助けを呼ぶべきか。
「昇るのを、手伝ってもらえませんか。」
声は、不特定に投げかける大きさではなく、穴の上にいる個人に投げられる。
いいのか、と返事が帰ってきた。揶揄しているのが聞き取れて、本当はすこしだけ口惜しかった。
「構いません。」
ゆっくりと優しい溜息の気配を感じて、まあるく切り取られた空から縄が投げ込まれた。しかし、その人の顔も手すらも見えない。いぢの悪い人だ、と喜八郎は手鋤の持ち手を縄に縛ってから、自分もその縄を使って上がった。
土の匂いが段々と薄れ、花の蕾の香りがする。若葉の香りがする。競り合って、けれども、心地よい。この季節を知っている。
「私がいると確信していたな。」
穴の上で、先程いぢの悪いと思ったその人は、やはりいぢの悪いそうな笑みを浮かべて立っていた。その表情に、不服の視線を返して、縄を引く。冷たい鋤が、冷たい土と擦れながら、無機質な音をたててついてくる。釣り上げた鋤を縄から外す。
「いえ、確信は全く。ただ、信じていました。」
仙蔵は、その言葉を聞いて、小さく吹き出した。
「何を、しらじらしい。大体、」
「ええ、あてのない助けを信じているなど、忍者としては失格です。」
頬に違和感を感じて、どうせ土でもついているのだろうと思う。しかし手も汚れているので拭うに拭えない。
「神も仏もありゃしない、なんて」
「私は神でも仏でもない。」
「勿論です。」
いぢの悪い先輩は、喜八郎の頭を頭巾の上から優しく撫でた。仕草がとても丁寧な人だ、とつま先で地面を蹴る。砂の舞わないようにそっと、しかし、乱雑に。
「けれど、」
学園中で仙蔵だけが、喜八郎に人を疑うことを覚えろと言う。
喜八郎は決して、人の言うことを鵜呑みにするような人間ではなかったし、寧ろ正論や道理を言われても跳ね返しもする。それは、仙蔵が相手でも例外ではなく、何度もちゃんと言うことを聞けと言われもした。けれども、仙蔵だけが、喜八郎に人を疑うことを覚えろと、言う。
敵などいくら作ってもいい。生き残れる強さがあれば。
味方は、多い方がいいに、決まっている。味方を味方のままに留められれば。信頼も絆も美しい、けれど、人にはそれを無碍にしなくてはならない状況が来る時もある。
そう言って喜八郎に繰り返し教えた。
けれど、呑み込むことが億劫になってしまうときもある。そうだ、と思い出す。自分は今、丁度疲れていたところだった。
ぐ、と強く鋤を握りしめても、木は軋みもせずに平然と喜八郎の手の中にある。そういうことだ、と示唆されている気がして、その手を放す。鋤は、乾いた土にあたって、音を立てて倒れた。
頭に触れるその掌で、融けて消えてしまったっていい。
「けれども、私は、きっと貴方を疑えません。」
「馬鹿者、」
声が優しい。
仙蔵は、今の喜八郎の言葉が本当だと知っている。それは、今現在の喜八郎を信じていることだと思っている。
一秒一秒積み重ねて、未来がどうなるか、疑うことを仙蔵は知っているのだろう。
その仙蔵が、今現在の喜八郎を、その言葉を、事実として知っている。信じている。
喜八郎は、そう、思っている。
小さくって身勝手な、けれど確かで大切な誇り。
「その言葉が今の私の証明です。」





そうして息をするように微笑んだ