夏の盛りが来る前に、ただひとり、呑み込めない感情を持て余している。










最後に顔を合せてから、どのくらいの季節が廻っただろうか。
最後に奴の顔を見たのは卒業してからまだ日も浅い頃だった。お互い、忍務ではなかった。共に過ごした学園から比較的近い町で、偶然会った。
次ぎ会う時は敵かも知れないと、卒業式の日に呟いたのは、確か留三郎あたりだった気がする。私も、それは仕方のないことだと思いつつ、できればそうでなくてほしいと思っていたため、敵としてではない再会に、心の底で安堵したのを鮮明に覚えている。あの日は、その日一日だけ二人で町の中を共に過ごし、日が沈むころには別れた。
あれから、もう何年か会っていない。
連絡もとっていない。今、生きているのかさえも分からない。
恋の終わりといえば、詩的がかって聞こえてしまうが、私とあいつの間に今、関係があると断言できるものは何ひとつとしてない。
自然消滅と、言うのだろうか。久しく会えない恋人同士の間で自然消滅があっても何ら不思議ではないが、果たして、恋人として、そして六年間共に学び同じ部屋で過ごした友としての絆さえも、あっけなく終わってしまったのだろうか。

夏の前は、いつも憂鬱だ。

あいつに連絡を取っていないのは、文のひとつも書けずにいるのは、私であるのに、それでも連絡のひとつもないことが少し切なく思う。
私ばかりが、未だにこんなのにも恋い焦がれているようで、酷く悔しい。
夏が来る前には必ず梅雨が訪れ、今年も例外なく雨が降り続いているが、私の想いも憂鬱も、一度として洗い流してなどしてはくれなかった。
本当に、この想いは私ばかりが抱いているのだろうか。
最後に会った日、またな、と笑ったあいつの顔が、脳裏に焼き付いて剥がれない。
あいつは私に、決定的な否定も肯定もくれなかった。
ただ、命の安否すら分からないあいつが、今も私のことを想っていてくれているかなど、知る由もないのだ。
ただ、もう一度、会いたいと思っている。



夏の盛りには戦がくる。


虫が焚火の火を求めて飛び交うように、人も戦火を求める。ただ、本能のように。
これは幾度夏が来ようとも変わらなかった。夏の盛りに来る戦は、大きく悲惨だが、美しい。
戦を起こす城主も、その足となる兵も、暗躍といえば聞こえはいいが、その戦の闇をただ這いずり回る様に走り回る私たち忍も、勝利の後に手にする、名誉や領地などに目が眩んでいるようだが、実際は違う。
そう装ったところで、戦禍に飛び込んでいく人間は、戦そのものにしか目を向けてはいない。心を揺さぶられているのだ。
あいつも、そうだ。
あいつも、戦うのが好きだから。
戦うのが好きだということは、戦が好きということではないことは、私も百も承知だ。あいつは筋の通っていないことは許せない性質だから、恐らく無駄に血の流れるような戦は好まないだろう。
それでも、忍の道を選んだ。この道を選ばずにいることだってできたのに、私もあいつも、そんなことは考えたことがなかった。
結局は、やはり、戦にしか目が向いていなかったのだ。
非道徳的なことが嫌いだと言っても、忍など自らが仕える主の駒となる存在、そんな主張などいらないのだ。忍ならば、そんな思考は捨てて、道具にならねばならない。
それでも私たちは、忍として、戦忍として、戦火の中に身を放ることを選んだ。
忍として、生と死の淵を歩くときの、あの恍惚感に、魅せられってしまったのだ。
私も、お前も。


あいつは今も、生きているだろうか。
あいつは、戦とあらば前線で戦っているのだろう。ここ何年の間で変わったかも知れないが、あいつの実力は、充分に理解しているつもりだ。あいつは、後方支援よりも前線の方がずっと得意だ。知識や頭を動かすことよりも、体を動かしその勘で道を拓くことのほうが得意だ。・・・・とはいっても、小平太のように極端に偏っているわけではない。これは、実習のとき、いつも組んでいた私だから、よく知っているのだ。
私は、その点でも、あいつとは真逆だ。
忍術学園の六年生ともなれば、各々、自分の得手不得手に適した戦い方を身につける。
そのために、普段の自主的な訓練も、内容が変わってくる。
背も高く、体つきもよかった、あいつ――文次郎や小平太、長次、留三郎は朝晩の体力的な鍛錬を続けていた。
逆に、私や伊作はそうではなかった。背も高くなければ、鍛えたところで体つきもあまりよくはならなかった。そういう体質なのだ。だから伊作は、医療系を中心にたくさんの知識を得てそれをカバーしようとしたし、私は火器をはじめとする様々な武具や道具の使い方を必死で学んだ。周りから天才とまで言われていた私が、他の奴らに置いて行かれないように必死になってそれを学んでいたことは、恐らくあいつのみが知ることだろう。それでいい。



また、夏がやってくる。


あいつは、今も無事だろうか。
この夏を生き残れるだろうか。あいつは、私、は。
今この瞬間にでも、あの見知った姿が視界に入ることを、聞きなれた声がこの耳に届くことを、心のどこかでまるで悲鳴を上げるかのように祈っている。
ただ、いつかまた会いたいと思う。そのために、私は誰それを殺してでも生にしがみついている。
侍とは違うのだ。侍は死んだらそのことが、身内に知れて、友にも知れる。しかし忍はそうではない。死んだら忍伝いに主にのみ、駒が一つ減ったことが告げられる。それだけなのだ。私も、同じところに仕えていた者の死を淡々と主に伝えたこともある。例え目の前に、どれだけ自分が世話になった忍の死体があろうとも、肉塊となったそれに一切の感情も持ってはいけないのだ。死んだらただの肉塊として、自然に還るまでそこに放置される。忍を葬るものなど、誰もいない。
だから生き延びるしかないのだ。生きて会うほか方法がない。
夏の前は、雨音や蛙の喚き声にすら愛着が持てる。死に時を悟ると、そういう風に、何もかもに愛着が持てるのだと、昔に誰かが言っていた。
果たして、多くの人間が、戦火に命を焦がされる夏を今目前にして、誰の死を悟れというのだ。

すべてを濡らしていく雨が、見えぬところで、季節はずれの花を濡らしていることには気づかずに、ただ静かに灼けるような想いに、私は身を焦がしていた。






散り花も渇いた、