私の憧れの立花先輩。
私の恋しき立花先輩。
貴方は、覚えておいででしょうか。あの、卒業を控えた春の、変ったことは何一つない、日常でしかなかったあの日のことを、貴方様は、おぼえておいででしょうか。









貴方はつくづく、私に甘いのだと思います。梳かしましょうか、その一言で、こうも簡単に櫛と、それからその類を見ないほどの美しい髪を、私に預けてしまうのですから。
「喜八郎、お前は思っていたよりも繊細な梳かし方をするのだな。」
「髪の梳かし方を、タカ丸さんに教わったのです。」
「ほう、お前がか。」
意外だな。あなたはそう言って随分くすぐったく笑うのです。そんなに意外だったでしょうか。いえ、意外でしょうね。私は、そのようなことを人に教わろうとしたことがないのですから。自分の髪にも無頓着ですし。ですが、
「はい、私が、です。貴方の髪に、触れてみたかったのです。」
貴方の髪は、とても綺麗で、その髪に触れるには、何か資格が欲しいような気がするのです。そう言えば貴方は、そんなものはない、と微笑むのでしょうけど、何も気にせずに無神経に触れることは、気が引けてしまうのです。
喜八郎。貴方は何を続けるわけでもなく、私の名前をやさしく呟くものですから、私はいつの間にか、髪を梳く手を止めて、貴方のその背に縋りついていました。私の感じている貴方の温度は、しかし、私が所有してしまうことは叶いません。
喜八郎。貴方の声は、ただ優しくて、私はそれがどうしようもないほどに嬉しいのと同時に、どうしようもなく切なくもあるのです。貴方は、貴方様は、どうして私の名前をそんなに優しく繰り返してくれるのですか。
「喜八郎。後で、外へ行こうか。そろそろ桃の花も咲くころだろう。」
「はい。そして、春になる頃にも関わらず、夏みたいに暑苦しい会計に仕掛けるタコ美ちゃんを掘りましょう。」
「ははっ。そうだな。お前の思考は少し私に似てきたかもしれないな。」
違うのです。私は、貴方だったらこう考えるだろうと、そう思って発言しただけなので、私の思考が貴方に似てきたのではなく、私が貴方の思考を、少しだけ分かるようになってきただけなのです。
そして先輩は、私に向かって微笑むのです。
繰り返し申しますが、我らが作法委員長、立花仙蔵先輩というお方の髪は、とてもとても美しいのです。そして先輩の微笑みも、とても丁寧で美しいのです。作法委員長というだけのことはある、好きの無い完璧な立ち振る舞いは、私では到底及びません。私の学年には、作法委員はいないので、私はいずれ意地でも作法委員長になる気でいます。それでも、私があと2つ年を重ねたとしても、今の貴方には決して叶わないでしょう。いえ、例え一生かけたとしても。それは、分かりきったことなのです。そしてそれでも私は一生貴方の背を見て生きていくのであろうこと、も。
喜八郎。私を呼ぶ優しい声を聞くことができるのも、あと僅かな間だということも、承知しているのです。貴方は卒業、してしまうのですから。
私は、手を伸ばせば貴方のいるこの距離が一番好きなのです。私は、貴方に分からないように、貴方の髪を一房手に取り、そっと口付けをしました。どこか遠くで、鳥の囀る声がしました。







立花仙蔵先輩。
覚えておいででしょうか。この綾部喜八郎のこと、を。いえ、賢い貴方のことですから、きっと覚えていらっしゃるでしょう。顔を見れば、すぐに名前を呼んで下さる。だけれども、そうじゃないのです。立花先輩、覚えてますか。私が貴方の髪を梳かしたあの日のことを。私は今も鮮明に覚えています。貴方の声、あの日の作法室の温度も。
立花先輩、立花先輩。
覚えておいででしょうか。貴方に恋い焦がれ、ずっと、けれども密かに慕い続けていた、貴方の後輩、この綾部喜八郎のことを。







こひしきあなたさま