森見登美彦著「果実の中の龍」のパロディです。なんでも許せる方のみどうぞ。








長次はたくさんのことを知っていた。そしてそれをいつも私に話してくれた。
私の知らない世界を知っていた。彼の兄と二人で、あてもなく何年か、旅をしたことがあるらしい。
卒業を三日後に控えたその日も、長次は私に話をしてくれた。
「遠い里には、鼬を祭る大きな祠もあった。」
「ふうん?」
「人間にとりついてしまうのだそうだ。憑かれた人は、知らぬうちに人を襲ってしまうこともあるらしい。それだと困るから、」
「祭っているのか?」
「・・・・ああ。」
その旅の話をするにあたって、長次は旅の記録を克明に書いた大きめの本をいつも眺めていた。ぺらぺらとめくって、私の興味を持ちそうな話を探すのだろう。白い指が、ページをめくるのをやめたとき、彼はぽつぽつと話しだした。
私は彼の話を聞くのが面白くて面白くて、いつも部屋にばかり籠っていた。閉めた襖の先の廊下で、い組とは組の四人が、楽しそうに談笑しながら通るのを聞いても、私は長次に続きを促し、長次も気にしたそぶりは見せずに私にいろいろな話をしてくれた。
「やけに大きな祠だった。中に何があるのか私は里で一番の長老に訊いたんだ。」
話をしている間、長次は私の顔を見ずに、記録をじいと見ている。
その本の中身を、私は見たことがない。気にならないわけでもなかったが、どうせ長次が話してくれるのだ。知る必要はなかった。遠目にみた頁には、細々とした字が所狭しと並んでいた。その文字の数だけ、私の知らない世界があった。
長次は私にとって、そこにいるだけで、一つの異世界だった。
恐らく学園の誰もが私と同じ世界に生きていて、それでも長次だけは違う世界の人のようだった。常識的に考えれば、とても本当だなんて思わないような話もあったが、長次の話を私は疑わなかった。彼の話す声も、纏う雰囲気も、とても嘘を言うそれではなかったからだ。長次の話は本当だった。
「長老は、白い眉と髭が長く、皺だらけで、目があるのが分からないような方だった。低い声で私に返事をしたんだ。教えぬ、と一言だけ言った。」
「何で?教えてくれるくらい、よかったんじゃないのか?」
「幼い私もそう思って、何日も彼のところに通った。兄も、私の我儘を聞いてくれたから、しばらくその里に滞在した。私が訪れるたびに日替わりの骨董品を愛娘か何かの様に大切に撫でていた。一目で高価なものだと分かる宝石のときもあれば、果たして本当に価値があるのか分からないひび割れた甕のときもあった。毎日私は同じ質問をし、彼は同じ答を返した。」
不思議な老人だったと彼は語るが、私には長次以上に不思議な人間などいなかった。
思い返すだけで、私がいつか他人に話をするのならば、私自身の経験した話よりも彼から聞き及んだ話の方が多くなるだろうと思うくらい、彼の話は、豊富で、鮮明で、また印象強かった。
種も仕掛けも見当たらないのに宙に浮いてみせたという大道芸人(その人は自信を天狗と称していたそうだ)の話、異国の人なのだろう、黄昏の空のような髪の人が、いつも大きな木の下で歌を歌っていた話、やけに源氏物語に詳しい米屋の話。人だけではなく、不思議なものの話もたくさん聞いた。漆の盆の話もそうだ。なんでも描かれている金魚が盆の面を自在に泳ぎ回るという。
「小平太、」
そのとき不意に閉められていた襖が開かれた。風の音と虫の声とがやけに鮮明に入ってきた。私の感覚は、長次の話す世界から、本来私のいる世界へと引き戻される。
「・・・仙ちゃん。」
「少し、明日の実習のことで体育委員会に相談があるのだが、時間を貰えるか。」
「ああ、うん。平気。今行くよ。」
い組が実習ということは、文次郎とも話をすることがあるのだろう。確かい組にとって最後の実習だったはずだ。とりあえず二人の部屋に行こうと立ちあがった。返事をしたが、その当人は私の声を聞いていたのか分からない。ただ、長次の方を何か考え込むようにじっと見ていた。いや、正確には長次の持つその本を見ていた。仙ちゃん、と私が声をかけるとはっと我に返ったように私を見て、行こうと言った。
部屋を出るときに、ふと気になって長次を振り返る。
「・・・・続きは、また今度話そう。」
長次はそう言った。



話をするとき、右手の指を爪から根元へと繰り返し撫でる長次の左手がやけに印象深かった。
「私の祖父の話をしよう。」
その日長次はそう言った。この前の続きが聞きたかったが、私はその後委員会を控えていてあまり時間がなかったので、長次が話題を選んでくれたらしい。
長次は、ここからはずっとずっと遠い、出羽の国の生まれだった。寒い雪の話を以前してくれた。彼が初めて雪を見たのは、その祖父と一緒だったらしい。
「私の祖父は、賢い人だった。還暦にあたって、自分の伝記を書こうとした。
最初は、自分の幼少期から今に至るまでの思い出をいくつか掻い摘んで書くだけのつもりだったらしいが、考える内に構想が大きくなっていったらしく、この家の歴史から、彼の生きた時代背景を交えて、自身の栄華を語ろうとしたらしい。古い文献を、村長の管理する村の歴史に関する資料がおさめられている蔵に籠って調べ続けた。たまに家にいると思うと、一心不乱に筆を走らせていた。父がおかしいと思ったんだ。まるで何かに取りつかれているようだったから。父が祖父の書きかけの原稿を見ると、それはもう祖父の妄想の世界となっていたよ。もはや自伝と呼べるものではなかった。古事記、日本書紀、それから私のいた村にだけ伝えられる物語。そういうものから何の脈絡もなく抜きだされ継ぎはぎになっていた。祖父によれば、私の家は、古事記の冒頭に登場する呪われた子の末裔だった。」
長次の左手は、右手の指を今もまた撫でていた。私は長次の話を、相槌も打てずにただ聞いていた。
「祖父の'自伝'は嘘ばかりだが、矛盾はなかった。衝動のままではなく、しっかりと練られた構想の上で書いていたのだろう。父は、祖父を自室に軟禁した。紙も筆も取り上げて。それでも祖父は、頭の中で、病で死ぬまで推敲を続けていた。私がたまに食事を運ぶと、そうして話を聞かせた。」
長次は悲しそうに瞳を伏せた。その祖父が好きだったのか、と私が問うと、長次は黙ってうなずいた。
その後、私は何も言えずに、長次は何も言わずに、幾許か時間が過ぎた。沈黙の時間は、実際よりも長く感じた。長次は、例の旅の記録の本を机に置いて、その机に向き合っていた。
やがて、委員会の時間だと部屋を離れる私が振り返った視界には、その本を眺め、私に話をするためにメモを付け加えているのだろう、筆を走らせる長次の背中があった。




「実はな。」
この学園で受ける最後の授業が実技だったせいで遅れた時間に食堂で昼食を摂っている私の正面に座ったのは、立花仙蔵その人だった。
長次は委員会の引き継ぎに関する仕事があるからとここにはいなかった。仙ちゃんは、もうお昼の時間に昼食は済ませているのだろう、何を持ってくるわけでもなく、ただ、私の前に座った。
「私と長次は、同じ村の生まれなんだ。」
仙ちゃんは私の目を真直ぐに見てそう言った後、バツの悪そうな顔をして視線を机に落とした。
「無論、お前も知っている通り、私は出羽の生まれなんかじゃない。」
何故、私が昨日長次から聞いたばかりの話の内容を知っているのかと、それがまず気になって、訊くと、すまないな、とだけ返された。聞いていたということだろう。簡単なことだ。長次の話を聞いている間、私は話に夢中になって他への意識は酷く薄れ、そしてまた、彼は私と同じ忍者の卵だ。しかも、学年で一二を争う秀才でもある。
「ここからそんなに離れていない、播磨の生まれだ。長次には兄もいなければ、旅にも出ていない。祖父など、今も元気に農業をしているよ。この前実家に帰った時に、大根をおすそ分けしてくれた。」
私は、食事の手を完全に止めていた。
「それが、どうしてそんなことに?」
「長次の持っているあの本、拾いものなんだよ。村から幾許も離れていないところに落ちていた。私はそんなに興味を示さなかったが、あれは昔から書物が好きでな。何日もずっと読んでいたよ。ならば、相当面白いのだろうと私が興味を持って、読ませてもらおうと長次に頼みに行った時には、長次はその本の余白に、ずっと何かを書きこんでいた。」
それから、彼は嘘の話をし続けるようになったのだという。拾いものの旅の話もあれば、全く根拠のない全て作り話のものもあったという。むしろ、後者の方が多かった。
嘘だなんて私に微塵も感じさせなかった長次の声が嘘みたいに鮮やかに思い起こされた。常識を逸した話ばかりではあったが、微塵も疑わなかったと私は告げた。それでもそれは全てうそだと私に言った仙ちゃんの声はやけに堅かった。
「私は、嘘でも構わなかった。」
私は最後にそう言い、私ではなく仙ちゃんが泣いた。






帰った部屋に長次はなく、机の上には例の本があった。
私は躊躇わずその本を開いた。確かに、細々と書かれていたのは紛れもなく長次の字だが、主体となる文の書かれているのは、彼のとは似ても似つかない字だった。不思議と、混乱もなかったし、哀しくもなかった。ただ、ふうん、と思った。そうだったのかと。今の私には、泣いていた仙ちゃんに何も言葉を掛けれなかったことだけが悔まれた。彼も長次を心配していたのだろう。彼は一人で泣いているのだろうか。いや、大丈夫だろう。彼には、正直の塊みたいな男がいる。
気付くと明るかった日はとっくに暮れていて、長次が帰ってきたのは、空の端が碧に染まるころだった。
「嘘だったんだな。」
自分でも驚くほど淡々とした声で言った私に、彼もまた抑揚に欠けた調子で、
「やはり、ばれてしまったか。」
とだけ言った。
「知ってしまった私を恨むか?」
「いや。」
「じゃあ、私にばらした仙ちゃんを恨む?」
「いや。」
私の二つの問いに、長次は首を振った。随分と穏やかな声だった。今まで仙蔵が話さなかったことも不思議なくらいだとも言った。
「ならば、私にこの前の話の続きをしてくれるか?」
そのとき初めて、長次は感情を表情にしてみせた。目を大きく開いて、驚いたという表情をしていた。
「まだ、聞く気があるのか?」
「もちろん。」



「それでもその里にずっとい続けることはできなくて、今日が最後だというその日にやっとその目を見ることのできない長老は私に教えてくれた。あの中には、幻燈があるのだと言った。」
「幻燈?」
「ああ。見せてくれるとも私に言って、私は祠の中に入った。罰当たりな気がしたが、長老が躊躇わずに入っていったので、私も続いた。ひろい石室で、四隅には紙で作られた灯篭のような、不思議な道具が置かれていた。長老は手にしていた燭台で、その四つに明かりを燈した。」
「それで?」
「そうすると、床に鼬の様な動物が映しだされた。鼬を祭っていたものだったから。しかし、鼬ではなかった。もっと胴を長くしたようなもので、頭は丸く、目や歯は人間のようにも見えた。私がその動物に絶句していると、長老は満足げに笑ったよ。それから、再度道具になにか仕掛けをした。すると、今度は石室の床も壁も天井も、まるで水の流れているかのように見えた。それから幻覚ではない水の匂いがした。私は今度は思わず声を上げて驚いた。するとその声に反応したかのように、別の生き物が私の丁度足元のあたりを泳いでいった。あれは速かったから、しっかりと確認できたわけではないが龍だった。あれは確かに龍だった。
それで、終わりだった。あの生き物は何だったのかと聞くと、長老は、本当はあれを祭っているのだと言い、ではあの龍は何だったのかと聞いた質問には、ただ笑うだけだった。そして最後に選別だと言って、彼の大事なコレクションの中から、不思議な根付をひとつくれたよ。果実のような綺麗な石の中に、龍の細工物が入っている。」
それがこれだ、と言って、長次は引き出しの中から一つの根付を取り出した。





そして、次の日が、卒業の日だった。
その根付を本当はどうやって手に入れたのか、終に私は聞くことができなかった。聞く必要もなかった。
卒業式は、みんな泣いていた。私は、これでもう長次の話を聞くことはできないのだと、それが堪らなく哀しくて悲しくて、それで、泣いた。長次は目を潤ませてはいたものの、泣いてはいなかった。
彼はーーーー昨夜、最後の嘘を話しながら泣いていた。
嘘でも本当でも、たいした問題ではなかった。嘘をつき続けてくれたっていいと思っていた。ただ私は彼の話す世界を愛したし、それはきっと、誰でなく長次だったから、私は聞くことが出来たのだと思う。きっと他の人間だったら端から信じてない。
長次は昨夜眠りに就く前に、私のことを理想の聞き手だったと言い、私はそれがどんなことばよりも嬉しかった。
最後に、と長次はあのびっしりと書き込まれた本を私にくれたが、私には長次以外に、話を聞かせたい相手もいなかった。





果実の中の龍