※七松先輩が病気ネタ。




七松小平太が病を患っていると知ったのは、まだ春のあたたかな光が学園を包み込む季節であった。
まさか、誰もがそう思った。まさかあの人が、と。
初めはただの噂だと信じぬ者もいたが、日を追うごとに小平太は授業に出ることも減った。委員会にも顔を出さぬ日ができた。入学して以来ずっと中在家長次と同室だった彼は今や一人部屋が与えられていた。
もはや、彼の病を噂だと、虚言だという者などいなかった。事実だった。

小平太が病だと知ってから、次屋三之助は毎日彼のもとへ足を運んでいた。
長次や滝夜叉丸とて小平太により多く会いたいと思っていることも、それでも二人とも(実際には後輩などもっと多くが)、毎日多くの人とあっては負担になってしまうと、三之助がより小平太に会いに行けるように控えてくれていることも知っていた。申し訳ないと思っていた。以前一度そのことを言ったら、それが七松先輩のためでもあるんだ、と滝夜叉丸は笑い、長次は三之助の頭をやさしく撫でたものだから、そのとき初めて彼のことで人前で泣くまいと決めていた瞳から数滴の雫が零れ落ちた。
授業と委員会を終えて毎日ひとりで過ごすには少し広すぎる部屋に足を運ぶ。三之助は、それと同じ広さの部屋を三人で使っていた。

小平太の病は、恐らく治らないであることも知っていた。
調子が悪い時は授業を休む、が、調子の良い時は授業に出れる、に変わった。
学園には方々から多くの医者が来た。けれど一度学園にきた医者が二度と学園に訪れることはなかった。それは、その医者たちが小平太の病に対して術を持っていないことを表していた。
襖を開ける前は、いつも息が詰まる思いだった。小平太の前で泣いてはいけないと、三之助の唇の裏には知らず傷が増えた。
「やっと来たか。ひとりは退屈なんだ。」
やっとの思いで三之助が襖を開けると、小平太はいつもそう言って上半身を起こして笑った。寝ていてくださいと三之助が言えば、寝飽きたとも言った。
病魔がこの人を蝕んでいるのが分かるほど、小平太の腕はかつて見せた力強さは窺えなかった。ただ、その笑みだけは相変わらず力強いもので、それが一層悔しく感じられた。惜しい。この人は、病魔に負けてしまうのか。三之助は、そう思ってしまう自分をそっと呪う。
他愛もない話をした。今日の授業の内容や、委員会のこと。三之助が実技の授業中に裏山で見つけた景色のよい場所の話をすると、きまって小平太はそんなところは裏山にはなかったと言った。小平太が病に臥してから、三之助が見た小平太の表情は笑ってばかりだった。しかし自身を蝕む病魔を一番恐れてるのも悔いているのも小平太自身であることは、言わずもがな分かっていた。強く握りしめたのであろう、小平太の掌に爪でつけた傷があるのを、三之助は見逃さなかった。
小平太に会う度、三之助は強くなれと言われている気がした。夜、自室に帰ってから布団にもぐり、左門にも作兵衛にも気づかれないように声を殺して泣いた。



そして三月が流れた頃だった。
夏の夜のことであった。
小平太のいる部屋からは学園の池がよく見えた。その水辺に、蛍が集まる季節だった。
前日は、滝夜叉丸とともに小平太のもとへ行ったため、その日は二人していつもより少し遅くまで期限の近づいた書類を片付けてから小平太のもとへ向かった。
襖をあけて、中へ入り、後ろを向いてその襖を閉めようとすると、小平太はそのままでいいと言った。更に、こうも言った。
「三之助、毎日弱った私のもとに来てくれること、感謝しているよ。」
まだ小平太に背を向けたままだった三之助は自分の目が驚きに見開いたのを感じて、背を向けたままでよかったと安堵した。しかし、息をつめたその音は小平太にも届いてしまったらしく、小平太は優しく息を吐くように笑った。
三月、思えば小平太の強い希望がなくては、ここにいられるはずもない時間だった。
「いつですか?」
三之助が問えば、
「明日だ。」
と小平太は答えた。ここは、忍者を育てるための学園だ。小平太の病ではおよそもう忍を目指すことは叶うまい。
なれば、ここに居続ける意味もない。理由もない。理由がなくては、いられない。
「どこか遠くで、ゆっくりと暮らすんだ。」
どこか遠く、それが具体的にどこなのかはどうしても聞けなかった。
「三之助、こっちへ、」
上体を起こした小平太が、布団の隣に座る三之助をさらに自分の方へと呼ぶ。それに答えた三之助は何を言えばよいのか分からなかった。小平太の腕が三之助を引き寄せた。その腕のなんと力のないこと。四月前まで後輩を文字通り振り回していたあの力強さはどこへ行った。あの逞しさはどこへ行った。今ではもう見る影もなかった。唯一力強く残っていた笑みでさえ今では儚いものであった。まるで、何かを、悟ってしまったようだった。
ふわりと柔らかく小平太の唇と三之助のそれが重なる。泣きださないのが、不思議でしかたがなかった。
なぜこの人でなくてはならないのか。もう問うまいと決めていた答えのない問いを、三之助は気づけば心の中で言い続けていた。この人は、こんなにも温かいのに。こうして今自分のすぐそばにいるのに。同じ想いを共有しているのに。この人でなくてはならなかった理由なんて、どこにもないのに。三之助は、叶わぬ願いを必死で唱えた。
「お前にしか言っていないよ。他には誰にも告げぬまま行くんだ。だから、誰にも言うなよ。」
そう言った小平太の頬に雫が伝い落ちているのを、三之助は確かに見た。それは生涯次屋三之助がただ一度だけ見た、七松小平太の涙であった。
たまらなく、三之助は小平太を抱きしめた。縋るようでもあった。神様。誰でもいいからこの人を救ってほしいと祈った。神様、貴方がいてくださったならばよかったのに。三之助は、自分を抱きしめ返す小平太の手も、何かに縋っているようだったと知っていた。
「三之助、私はそれでもとても幸せなんだよ。」
そういう小平太の声は、酷く穏やかなものであった。余すことなく感じる温もりが愛おしくて仕方がなかった。
「貴方に会えて、俺も、とても幸せです。」
「あぁ、愛しているよ。」
「はい。生涯。」
このまま時間など止まってしまえばいいと、思った。それともこれは長い夢で、目が覚めたら小平太が元気でまた自分たちを振り回すのではないかと、都合のよい希望も抱いた。けれど、三之助が抱きしめるその温もりは、どうしたって現実のものだった。このまま夜など明けなければいい。
「後生だからもう一度、」
三之助がそう言えば、小平太は優しく、本当に愛おしそうに微笑んで再度唇を重ねた。しょっぱい接吻だった。
これが、今生の別れになると知っていた。
螢火だけが、その最後を照らしていた。



それからその夜、三之助は初めて声をあげて泣いた。
部屋に帰る気にもなれなかった。学園を出て、いつぞや小平太に話した景色のよい裏山のどこかだ。仰向けに寝転び目を腕で覆って空を仰いで泣いた。三之助の涙は、螢火と星の瞬きが照らした。
もう二度と愛しい人に会うことはかなわないと知っていた。それが悲しくてたまらなかった。
乱暴な人だった。人の話も聞かない人だった。横暴な人だった。豪快な人だった。書類関係の仕事は全然やってくれない人だった。明るい人だった。優しい人だった。後輩思いの人だった。忍の才のある人だった。愛していた。好きで好きで仕方がなかった。畏怖すら抱いたこともある。憧れていた。目標だった。近くにいるのにどこか遠くにいる人だった。それなのにふと近くに来てはいたずらに感情を乱していくような人だった。何より、自分を愛してくれる人だった。
それなのに、どうしてあの人でなければならなかった!
三之助は、もう二度と愛しい人に会うことは叶わないと知っていた。その事実が重くて重くて悲しくてしかたがなかった。
嗚呼。
自分にはどうしようもないことだった。病に関しても何一つ、そしてこれからは、話ひとつしてやることもできないのだ。もどかしくて仕方がなかった。三之助は泣いた。その時間ばかりが長く感じた。あぁ、夜など明けなければ。












「勢力的には五分五分。士気次第でどうにでも転ぶ。」
作兵衛の声に、縁側から螢を見ていた三之助は振り返る。
あれから、もう何年も経った。
同じ城仕えとなった作兵衛はたった今、忍組頭に偵察の結果を報告し終えてきたところらしい。
昔からずっと同じ長さで切っている茶色い髪が揺れた。
「ふーん。なぁ、作。俺死ぬのかな。」
「今士気次第だっつったばっかだろうが。んな発言すんじゃねぇ。」
「・・・ごめん。俺、この景色苦手だ。」
「そーかよ。」
そのくせ目を背ける気なんてないくせに、と作兵衛は小さくため息をついた。
作兵衛は以前一度、捜しに行く気はないのかと尋ねたことがあった。本人がもしかしたらまだ生きているかもしれない。そうでなくても、墓なりなんなり、捜す気はないのかと。
三之助はその時、迷いもせずに首を横に振った。自分に残されたものはそんなものじゃないと。
強く生きよと、三之助は言われたわけではない。ただ、小平太の何かがずっと自分にそう言っていた気がしてならなかった。
「三之助、お前、絶対死ぬなよ。」
「死なねーよ。勝ち戦の後は奮発していい酒買おうぜ。」
「この前町で見た奴なら勘弁だぞ。」
「何で!」
「あんな強いの俺が飲めるか。」
えー、と三之助は不満の声を上げる。
作兵衛は以前一度フリーで忍者をやっていた滝夜叉丸がこの城に雇われて任務をした時を思い出した。歴代体育委員の酒の強さは異常だ。作兵衛は早々に根を上げたが、翌日起きた時に部屋に転がっていたあの瓶の数とその驚きは一生忘れないと思う。噂には、小平太も相当強かったのだという。あぁここにもあの人の影が。作兵衛は思う。もう長い付き合いになるこの男が今もなお慕い続けるあの人は、あまりに大きすぎる存在であったと。作兵衛は、今自分に背を向けて表情の見えない三之助が、酷く愛おしそうに笑んでいるのを知っていた。
螢火が照らす夜だけ、三之助は小平太を思い出した。三之助は、自分がもう一生誰かを愛することはできないかもしれないと十分に分かっていたし、それでもよいと分かっていた。ただ自分が生きている限り世界中に残された、残り香を抱いて生きていく。強く、と自分に言い聞かせながら。
作兵衛にも気づかれないように、三之助は小平太が最後に自分にいった言葉を口ずさんでいた。
「なぁ、作。」
「なんだよ。」
「俺、は、多分ずっと幸せなんだと思う。」
「あぁ、そうだろうな。」
その時確かに三之助の頬には涙が伝い落ちていたのだが、それに三之助自身も作兵衛も気が付かなかった。確かに、あの日小平太が流した涙と同じような速さで、頬を伝っていったのに。
それを知っているのは、涙をほのかに照らした螢火と、空に浮かぶ星々だけであった。
螢火だけが、照らしていた。






螢火