素知らぬ顔をして猫が鳴いた。にゃー、と言った。愛想の欠片もない風であったから、敢えて構おうとも思わなかった。
まだ昇りきっていない陽の光に、黄とも緑ともつかぬ眼が鈍く光った。さしてそれを何とも思うこともなく仙蔵は止めていた足を本来向かっていた方向へと再び進めた。遠くで蝉の声がする。


「やはり退却に少し時間を食ったようだ。」
目的地であった自室に帰ると、同室の文次郎は入口に背を向ける形で机に向かっていた。
今、先日の実習の自己評価を提出し、代わりに評定を貰ってきたところだ。その内容から要点のみを淡々と読み上げると、その紙をぞんざいに文次郎に渡した。要点をまとめると、先に口にしたようにはなるのだが、気落ちするほどのものではない。評価はなかなかに上々である。ただそこにはより高みを目指すなら、といった内容が書かれていたわけである。但し、より高みを目指す意志が強くなくては、この学園で六年も学ぶことなど叶わないであろう。文次郎はその紙に目を通すと、拍子抜けといった風な表情で仙蔵を見遣って、徐に口を開いた。
「何だ」
「何が、」
眉間に皺を寄せて不満の声を上げると、文次郎は言葉を濁した。らしくもない、と仙蔵は言ってやろうとしたが、不毛な気がしてやめた。不毛だ、と思った。根拠も無しに。ただこの寂寞は、知っている。今はまだ緩やかな角度で触れる陽光は心地よい。あと少し時間が経てば鋭くなった燦々たるそれは不快になる。為すべきことも特には無く、仙蔵は畳の上に仰向けに寝転んだ。
「おい、仙蔵」
昼寝にはまだ早くないか、と文次郎が言った。別に寝やしないと返した。それきり会話は途絶えた。
仙蔵は暫く、青々とした葉を虫どもが食む音を耳の奥で聞いていた。どうせならば深海がいい。思った。この畳が自分の体を受け止めるよりもずっと優しく海にでも沈んでしまえばいい。その方が何も考えなくて済む。その方が暑くもなくて済む。蝉の喚き声すら聞かずに済む。
隣ではまだ、文次郎が机に向かっている。横目で見遣ると、何やら筆は止まっており、いらだたしげに筆を持たぬ方の手で頭をかいている。
「何だ、恋文でも書いているのか。」
「馬鹿を言うな。文は文でも、家族宛だ。」
紙と睨みあいをして刻まれた眉間の皺をさらに深くして、文次郎はそう言った。暑い時と、此奴が切羽詰まっている時に冗談を言っても、反応が面白くないと思いつつ、仙蔵はふうんとそれだけ言った。億劫だと思った。
「私も母上から文が来たよ。盆にも帰らぬつもりかと一文だけ責められはしたが、後はまあ、心配と応援だった。」
「別に俺とて怒られやしねぇが、なァ、」
少し考えた後に文次郎は筆を置いた。筆不精め、と言ってやると、うるせえ、と返された。
「なァ、仙蔵」
呼ばれた。
同時に、外から猫の鳴く声がした。あの愛想の欠片もない声で。もしかしたらあの猫は夏中居座るかも知れない。誰かが餌でも与えたのかもしれない。
ただその声を聞いたときに、あぁ、これか、と思った。
「やっぱりお前、寝ちまえば?」
目の上に、掌。その温度にじわりじわりと溶かされていく。だが果たして溶かされていくのはなんだっただろうか。なんでもいい。何だって構いやしないさ、そう思った。
「遠慮しておく。」
そうか。そうかと言った。言いはしたが、猫がまた鳴く。それこそ不毛だろう、と仙蔵は思った。
瞼に乗せられたままの掌に触れると、不思議なほど落ち着いた。たっ、と猫の足音が聞こえる。不貞不貞しく鳴くだけ鳴いてまたどこかへ行ってしまったらしい。
「だが、ありがとう、文次郎。」
溶かされていく、と感じていた。それがいいことか悪いことかは、知る由もない。それでも。それ、でも。
「何、笑ってんだよ。」
存外にこの男も不器用だと思ったら、なんだかほっとした。愛おしいと、漠然と思った。
「・・・・あぁ、すまんな。」




猫の泣く日、
最後の夏休みが惜しくてみんなで学園に残る六年生、な妄想。