ほう、と影が香った。
その名前を呼ばれるまで、雷蔵はちかちかとする星明かりを見ていた。
地面から滲みだす様に暗澹と、夜が蔓延る。それをまた、星と月の明かりがせめいで削いだ。凜。
ただ、視界に映るもの全てにおいて、なにか感想をつけるわけでもなく、見ていた。
「雷蔵。」
振り向く所作に、夜の匂いを嗅いでいた。
三郎、と呼び返すのに、三郎は、うん、そう、とでも言いたげに目元に正しく皺を寄せてきゅっと笑った。
そこで笑うのか、と思った。思ったけれど、姿かたちとは反対に、雷蔵は三郎の真似をしてにこりと笑う。
ちり、と小さく燃える頬で、自分が傷ついていたことを知る。
「それ」
よく見ると、おんなじ右の頬に三郎も傷を持っていた。すう、と伸ばした人差し指で瞬きを三つする間だけ指し示す。
示しながら、まだ笑ったままの三郎を見て、その表情、知らないなァ、とぼんやりと思う。
言葉巧みな彼は、実は一番表情が巧みだった。鮮やかで、種類が豊富。いいなァ、と少しだけ羨んで、けれど、飽和してしまいやしないかと、それだけが気がかりだった。
痛む頬に笑むのをやめる。三郎の頬も、痛むだろうに、彼は笑う。
雷蔵が、言葉を選ぶ間にも、とろとろと重い風が流れる。勢いもないくせに、枝を巻き込んで、はらりと葉が散ってかさかさと音を立てた。昼間なら、開いた花が散っていただろう。蕾が守られているのを想って、早く帰って眠ってしまいたくもなる。
「うん、傷ついちゃった」
言葉が巧みで、表情が巧みで、けれども、そう言って三郎自身の頬に伸ばされる指先、その所作が酷く拙くて、雷蔵はそれに安堵する。
「お揃い。ね。」
視界に入る、夥しい情報量。
その大半を占める背景に、何の意味もないのに、三郎の僅かな所作には全てに意味がある。
それが、途方もない奇跡のように思えて、嘆息することさえもが躊躇われた。
瞳に光を湛えて、拙さをなるたけ削ぎ落として、三郎に向かって雷蔵は手を差し伸べた。
帰ろう、とそれだけ言って、笑いかけたのに、頬が痛くて不恰好だ。
そうして三郎は拙いままの手を伸ばして、それに答えるのだった。
ただ、それだけの、なんでもない夜。



呼吸の音