いつまで経っても理由は分からんが、ある深夜、仙蔵が声を上げて泣いたことがあった。
委員会で自室に戻るのが遅くなって、それで、いつもなら寝ているはずの時間なのにな。起きていた仙蔵が、俺の顔を見るなり、わっ、と。
そんなこと、今までになかったから、どうしていいのか分からなくて。理由を聞いても、とてもまともに答えられる状態じゃなかった。だから、ただ抱き締めて、幼い子供をあやすように背中を叩きながら、仙蔵が落ち着くのを待っていた。
嗚咽。隣の部屋、聞こえるんじゃないかと思ったが、それを構わないと言うかのように、真直ぐに泣いていたから、俺も何も言わずに、ただ自分の肩口に染みていく仙蔵の涙が、あまりにもあたたかかったから、不意に俺まで泣きたいような気持にさせられた。
何に耐えきれなかったのだろうか。どうした、だなんて繰り返し訊いても、答えは返ってこない。俺のその言葉が、耳に届いたかすらも分からない。俺の背に回された、そのすがるような腕がなければ、きっと、仙蔵の認識する世界にそのとき俺はいなかったのではないかと、錯覚しそうなほどに。
肌を掠める髪が冷えていた。湯浴みした後、満足に乾かさなかったのだろうか。
ただ、堪らなく愛おしかった。例えばあの時に、瞬間に仙蔵の憂いを取り除く方法があるのならば、得られたのならば、恐らく、仙蔵の次に大切なものを手放すことだって厭わなかったと思う。あの時は。そんなこと、口が裂けても言えないが。多分に、俺が仙蔵のために大切なものを手放す、だなんて事実は、仙蔵にとっては重荷になるのだろう。俺は、俺のために仙蔵が何かを失うことを、事実、望んじゃいない。
幼子のようになく仙蔵は、あまりにもひたむきだった。
そんな風に、意識の全てを以て泣くことだけをしたのは、いつが最後だっただろうか。記憶に残らないほどに、ずっと遠い。それをあの時、俺の目の前でしてみせた、その姿は、弱くて儚くて脆くて、毅然としていて強かで美しいくらいだった。
「どうして、」
仙蔵は、それだけ言った。
その四文字で、何を問いたかったのだろうか。何を知りたかったのだろうか。それを深く尋ねることが出来なかったのは、それ以上に聞いたところで何も答えを得られないだろうと思っていたからであり、もし答えが返ってきたときに、それに答えてやれる術を、どうしたって俺は持っていないような気がしてならなかったからである。
ただ咽ぶ仙蔵が愛しくて、世界の全てを愛せるような気さえした。
いつかに読んだ書の主人公。幸せで死んでしまうなんて、馬鹿らしいと思ったけれど、今死んでも構わないと言えるくらいに、哀しいほど幸せだというのは、ああいう感情のことを指すんだろう。馬鹿らしい、ということには、変わりはないけれど、それでもいいと、確かに思った。
時間が永遠でないことは知っていた。ならばその限りにおいて、その哀しいに似た満ち足りた感情を紡いでいたかった。そうしてそれから闇雲に、息絶えるその瞬間までその美しい人を愛で慈しむ術を探しているようなものである。


浴室
(椎名林檎様の同タイトルの楽曲よりイメージをふくらめて。)